すみともインタビュー 2

住友の精神性

東京帝国大学卒業時の亀井正夫さん
1938(昭和13)年10月。東京帝国大学卒業時の亀井正夫さん。このあとすぐに住友本社に入社した。
写真提供 亀井正夫
1941(昭和16)年住友本社人事課の人たちとともに
1941(昭和16)年住友本社人事課の人たちとともに。この写真は当時の人事課長(写真前列左から4番目)の送別会の際に撮影されたもの。亀井さんは前列左から2番目。
写真提供 亀井正夫

亀井:

当時の住友本社は、直轄の事業所とかを除くと、全部でせいぜい500人ぐらいのシンプルな組織でした。輸出入などはすべて三井物産へお願いしていました。今、住友と三井が一緒になるのを不思議に思われる方もありますが、戦前、住友は商事部門で三井さんと組んでいたのですよ。

末岡:

江戸時代の銅は、幕府が買い上げて輸出するためのものでしたから、住友の事業は半官半民のような仕事でした。幕末期、三井さんも幕府の財政の一翼を担っています。幕末に住友が経営難に陥ったとき、三井さんに助けてもらったこともあったようです。それから明治になると、親戚どうしにもなっていますね。

亀井:

私が入社したときの総理事が小倉正恆(第6代総理事、1875年から1961年)さんで、在阪の新入社員を全部本社へ集めて訓示があったのです。そのときの話が「金もうけせよ」ではなくて「人間を磨け」という話でした。これは変わった人だなあという気がして、記憶に残っています。

末岡:

そうですか。

亀井:

小倉さんについて私が感心したのは、昭和16(1941)年に近衛内閣の国務大臣になられたときのお別れの挨拶です。本社の社員と在阪各社のトップを集めて「自分は昭和5(1930)年に総理事になり、昭和16年末まで11年間住友グループを指導してきた。その間、自分は事業を起こすにあたって、利益になるかではなく、そのときにそれが道義にかなっているかどうかということをいつも考えてきた。そうすれば間違いがない。くどいようだけれども、ひとつの道義があって事業を起こす。後輩の皆さん方も、これはぜひ守ってもらいたい」といわれたのです。私は入って2年目だったんですが、大所高所からものをいわれるなあと。今、小倉さんの気持ちが痛いほどよくわかる気がします。

末岡:

住友の初代・住友政友(1585年から1652年)の文殊院旨意書が、事業精神に流れているんでしょうね。

亀井:

私は信頼性ということがビジネスのうえで一番大事だと思っています。リライアビリティ(Reliability 信頼性)、これを守ってほしいのです。文殊院の教訓である「信用を重んじ確実を旨とする」は、今の若い人には抽象的でわかりにくいかもしれません。それで私は社長時代に、リライアビリティとインテグレーション(Integration 統合)によって、組織のすべて、末端までが一体感をもつことが大切で、そこからクレディビリティ(Credibility 信用)が生まれる−−R+I=Cという方程式を編み出したわけです。

末岡:

はい。組織における意思の疎通は大切ですね。

亀井:

先代の家長(第16代・住友吉左衞門友成)さんから、厳しいおしかりをいただいたこともあります。住友としてやってはいけないことをやっていないかと。手前味噌ですが、私の会社はバブルのときも土地を買ったり株を買ったりということをしなかった。今、日本の経済は反省期に入っていますから、道義という点ではよかったと考えていますが、経営者はいつも気にかけているべきことだと思います。

末岡:

きょうは先代の家長さんが泉幸吉のペンネームで出された歌集をおもちしたんです。まず、昭和6(1931)年、恐慌のときの「年毎に失業者増す世の中に金はいよいよ偏りゆくらし」。当時の住友財閥の当主がお詠みになったと思えない、プロレタリア的な歌なんです。それから、同じ年の争議のときの歌。「起らざりし労働争議遂に来て片付かぬままに春ゆかむとす」と詠まれた。それから最後に解決したときの歌が−−。

亀井:

「真夜なかに解決電話かかり来つ瞼熱くわれは聞きたり」ですね。

末岡:

それから「遂に遂に争議解決の報に接し床中にして涙ぐまるる」という。当主みずからが、労働者と経営者側のいさかいを、非常に悲しく思っていたんですね。

亀井:

住友電工も、ちょうど大正10(1921)年に、争議がひと月続いたのです。このときの電工の先輩方は偉かったと思います。争議があると、結局、アンチ会社のグループと会社寄りのグループとにわかれて、社員どうしでいさかいが絶えなくなる。こういうことを繰り返してはいかんということで、労務担当者をふたり、1年間海外へ勉強に行かせたんです。イギリスでファクトリーカウンシル(Factory Council)という制度を学び、以後、経営トップと労働組合の代表とが年に数回懇談をやって会社運営の話をしたりするようになった。おかげで、電工では大正10年のスト以来現在まで、1回のストも時間外拒否もないのです。

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