全国盲学校弁論大会特別協賛

弁論を読む 第84回(2015年) 全国盲学校弁論大会

<優勝> 光り輝くあの月へ

福島県立盲学校高等部専攻科理療科1年 渡邊健(わたなべ・たけし)(47)

私が生まれて1年後、1969年7月20日、天上に燦然(さんぜん)と輝くあの月に、宇宙史上初めて人類が降り立ちました。アポロ11号です。まさに「歴史的な第一歩」でした。地球から38万5000キロメートルもの彼方にあるあの月に、どうやって人がたどり着いたのか、幼い私には想像することすら、かないませんでした。

では光り輝くあの月は、本当に私たちにとって遠い存在なのでしょうか? ある数学者がこんな話をしています。「ここに厚さ0.1ミリメートルの紙があります。この紙を1回折り曲げればその厚さは0.2ミリメートル、2回折り曲げれば0.4ミリメートル、3回折り曲げれば0.8ミリメートルになります。ではこの紙を何回折り曲げれば、その厚さが38万5000キロメートルもの彼方にあるあの月に届くのでしょうか?」。小学生に聞いてみると、大概1万回、あるいは100万回などと答えます。ところが実際に計算してみると、驚くべきことに、たったの42回なのです。本当です。会場の皆さんも、ちょっと紙を折りたくなってきませんか? こうして考えてみると、月も案外近くにあるのだなと思えてきます。

私はこれまでの23年間、小学校や中学校の教員として働いてきました。仕事に追われ、夜中までになることも度々ありましたが、何より生徒と関わり合うことが楽しくて楽しくてなりませんでした。小学生はどんな時でも純粋で、中学生はどんな時でも自分の気持ちに正直でした。それぞれに悩みがあって、ですが一方でそれぞれに希望があって、そんな大切な時間を子供たちとともに過ごす中で、どれだけ多くのエネルギーを頂いたか分かりません。今考えれば、とても掛け替えのない、ぜいたくな時間であったと思います。

しかしそんな充実した生活の中にも、じわりじわりと困難はやってきます。ある日、縦書きの文庫本が読めなくなった。ある日、黒板に自分で書いた板書の文字が読めなくなった。そしてある日、料理上手の妻の手料理、おいしそうな香りはするのだけれど、その彩りが見えなくなった。しかし、一番切なかったのは大好きな生徒たち、何より愛する我が娘の表情が捉えられなくなってきたということ。毎日がいらだちと切なさとの葛藤の日々でした。

そんなある日、私の小学生になる娘が「目が見えなくなったってパパはパパ。私がパパの分まで見てあげるよ!」。そう言って私を優しく手引きしてくれました。衝撃を受けました。こんなにもすてきな家族が私のすぐそばにいるのに、これまでの数年間、どんな背中を見せ続けてきたのか? 哀れと思ってもらいたかったか? 大丈夫だよと肩でも抱いてほしかったか? それでも俺は父親か? それでも妻が愛せる夫なのか?……。実に情けない。今なぜ苦しいのか? できることがどんどんどんどん少なくなっていく恐怖。いつか自分は「ゼロ」になってしまうのではないかという呪縛。でも何か、何か忘れてる。

その時パパは気が付いた。ドキドキすること、ワクワクすること、ハラハラすること、そしてその感情を、努力して楽しむこと。新たなもの、一つの出会いにときめくこと、新鮮さをこの体で、この胸全体で味わうこと。そうだ忘れてた。新たな出会いの喜びこそが、心や体の障害だけじゃなく、国、宗教、人種の間に生じる障害だって乗り越えられるはずだ。今まで教室で熱く語ってきたじゃないか。自分ができなくてどうする。

そう思って外に目を向けた時、この盲学校の存在がありました。その時、脳内にすうっと光が差し込んできた感覚を、今でもよく覚えています。その光は、暗闇に座り込んでいた私を優しく照らす、まさに月の光にも似た、ぎらぎらと照りつける太陽の光とは違った、実に穏やかな光でした。この学校は私にとっての「希望の月」になる、今そう思えるのです。

47歳にしてグランドソフトボール部に入部した私。クラスメートの19歳のM君に半ば強制的に入部させられました。しかし、これが実に面白い! 灼熱(しゃくねつ)の太陽の下、あらゆる関節の痛みに耐えながら仲間とともに汗を流す日々。更に調子に乗ってフロアバレーボール部に入部。何と17年ぶりの東北大会優勝。感動。私は応援だけでしたが。しかし、これも新たな自分。

光り輝くあの月は、そんなに遠くにあるわけじゃない。新たな場所で新たな一歩を踏み出した自分は、今確実に月に向かって0.1ミリメートルの紙を折り始めたのだなと実感しています。ただ、50を間近にした私にとっては紙というよりはステンレス板かもしれません。

清水の次郎長のように男のロマンを胸に秘め、沼津のワサビのようにピリッと爽やかに、浜松のウナギのように味わい深く生きてゆく。そうすれば「リング」のように輝くあの月に、たどり着ける日がきっと来る。私はこれまで生きてきた中で、そんな実感を今持っています。さあ、輝くあの月に向かって、自分の気持ちに正直に、ワクワク、ドキドキしながら。さあ、いざ行かん! 光り輝くあの「希望の月」へ! あとはこの、のんきなパパに任せろ!

ありがとうございました。

<準優勝> 心のコンパス

大阪府立視覚支援学校 高等部普通科3年  和唐衿香

私は生まれつき弱視です。右目は全く見えず、左目はすりガラスを通したような見え方です。これから話すのは私が小学校の時に体験したことです。

小学校は一般校に入学しました。「みんなについていけるかな? いじめられへんかな? 友達はできるかな?」と不安でいっぱいでした。

新学期になり、担任の先生はまず私の障害のことについてクラス全員に話をしました。すると「障害ってなに? とにかくキモち悪い」とクラスの誰かに言われたことを覚えています。

そして3年になり、不安に思っていたことが起きてしまいました。移動教室から自分の教室に戻ると、拡大読書機の台の上には「バカ、死ね」と大きな字で書かれたり、ある日にはドッジボールでわざと顔に当てられたり、またある日には、階段を降りていると女子3人グループに十数段上から蹴り落とされたりしました。

私はいじめにあった時、心の中でずっと思っていました。「自分から障害のことについてみんなに伝えよう! 自分の気持ちを伝えれば、きっとわかってもらえるに違いない!」と。そして私は、ある決意をし、担任の先生に相談をしました。「先生、私みんなの前で自分の障害のことについて話したい! だから、どこかで時間をもらうことはできませんか?」。そう聞くと先生は、「わかった。でも、本当にいいの? もしかするともっといじめがひどくなるかもしれないよ」。そう言われました。その時、私の胸がグッと苦しくなりました。しかし、私は勇気を出して言いました。「いいんです。人になんにも言わないよりかはましです。だから言わせてください。お願いします」

そして担任の先生に伝えて2週間ぐらいがたった時、校長先生交えて、時間を作ってもらうことができました。私は話を三つに絞って言いました。一つは「右目は全く見えないこと。左目は見えますが、ぼんやりとしか見えないこと」、二つ目は「遠いところが見えにくく、暗いところになるともっと見えづらくなること」、三つ目は「みなさんの手を貸してください! 自分でできることは頑張ってやります。しかし、もしものことがあれば助けてください。そして、他の障害の方で困っているのを見かけたら、助けてあげてください」。そう言いました。

聴いているみんなは、「なんであんた一人のために手貸さんとあかんの?」と、嫌そうな雰囲気が出ていました。そして、やはり2、3日ではわかってもらえず、私は単眼鏡やルーペ、義眼などを見せたり触らせたりしながら理解してもらおうとしました。

そして何日かたち、クラスにある変化がありました。それは夏の宿泊学習の夜、夜空を見ていると先生が、「夏の大三角があるよ!」と言いました。私は見えなかったので、下を向いていると、隣にいた男の子が私の手を持ち、「見て! 星が一つあって、右下と左下に星があって、全部つなげると、ほら! 三角形!」。そう教えてくれました。その時につないだ手は普通に手をつなぐよりかははるかに温かいものでした。

そして、私が一番驚いた出来事がありました。それは、私を階段から落とした女子3人グループが、私と同じ小学校にいた話すのが難しい子に対してある提案をしたことです。「なあ、その子に言葉教えへん? あ~、あっ、ほらっ、手話ってやつで」。そういうとクラスメンバー全員は「いいやん! やろやろ!」と賛成し、図書室に行き、手話の本を読み、その子に「おはよう」っていう言葉を教えることにしたのです。休み時間にその子に会う度に、「右手を上から下に下ろして、両手を前に出して、人差し指を曲げる。これがおはようだよ」。そう教えていき、1週間ぐらいがたった時に、その子は初めて「おはよう」っていう言葉が言えるようになったのです。

なぜ、これだけみんなが変化したかというと、それは、私が総合的学習の時間で発表した時の、クラス全員からの感想文に書いていました。「今回、初めて障害の人に会い、とってもびっくりしました。どうやって話せばいいかわかりませんでしたが、とてもいい勉強になりました。これからも、もし困っている人がいたら助けてあげたいです」という言葉がたくさんありました。私はうれしくて、今でも忘れられません。

これはあくまで小学生時代の話ですが、このような体験をし、「人に気持ちを伝えればこんなにもわかってもらえるんだな」と改めて感じ、健常者ともっと仲良くなれる世界ができたらいいなと思います。

人生には明日があります。しかし、道しるべとなる地図などはありません。私は優しさと勇気を忘れず、自分の生きる道は自分で切り開いて健常者と一緒に手をつなぎ、頑張っていこうと思います。自分を信じて。

Compass of my heart

ご静聴ありがとうごとうございました。

<3位> ただ寄り添える先生になりたい

筑波大学付属視覚特別支援学校高等部普通科2年 松岡琴乃(17)

私には、夢があります。

それは病気と向き合う未来の子供たちに寄り添い、笑顔と希望を与えられる院内学級の教師になるという夢です。

私にこの夢を与えてくれたのは、11歳の時のある出会いでした。

幼い頃、両目にがんを患い、何度も入退院を繰り返してきましたが、幸いにもがんは完治し、地元の小学校に入学した私は周りの子供たちとほとんど変わらない小学生らしい生活を送っていました

しかし11歳の時、がんは再び現れ、今度は私の右足を襲ったのです。

絶望しました。

厳しい現実を受け入れなければならない苦しみと悲しみで、私の心は暗闇に覆い尽くされてしまったのです。

けれども、厳しい現実の暗闇にもかすかな光は差し込んでいました。

それは「院内学級に行ってみませんか」という、あるナースの言葉でした。

そう勧められ院内学級に足を踏み入れてみると、そこにあふれていたものは、ほかでもないみんなの笑顔でした。

その笑顔を見た時、私はこう思ったのです。「私は病気になり、それによってできなくなったこともたくさんある。でも、私が笑うことは病気にも止められないだろう」と。私に与えられた8カ月という入院期間を変えることができないなら、同じ時間をできるだけ笑って過ごそうと心に決め、すぐに私も生徒の一員として院内学級に加わりました。

この院内学級こそが私を暗闇からすくい上げてくれたのです。

とはいっても、長い入院生活の中には、不安に押し潰されそうになり、眠れない夜はたくさんありました。

そんな時、いつも私を支え、励ましてくれたのは、常に私たち生徒の気持ちに寄り添い、時には手を握り、時には一緒に涙を流してくださる先生と、夜遅くまで話し、一緒に泣き腫らし、それでもまた病気を忘れてしまうほど大きな声で笑いあった友達の存在でした。

こうした人たちに巡り会っていなければ、私がこの試練を乗り越える事はできなかったかもしれません。

15歳の時、友達はがんが再発した事で亡くなり、その時は再び笑顔を失いました。

しかし、私の中からその存在が消えることはありません。

私にとってその友達は、がんという病気に侵され、生と死の境目を共に歩んだ人生の仲間だからです。

そして今も、私の中で生き続ける仲間が、私に笑顔と生きる力を与えてくれるのです。

この時私は、同じように病気と向き合う未来の子供たちに、笑顔と生きる希望を与えられる院内学級の教師になりたいと思いました。そして、たとえ遠く離れていても、もう会うことができないとしても、仲間が私を生かしてくれるように、ある人の存在で別の誰かを生かすことができるなら、今度は私がその人の生きるパートナーとして共に人生を歩んでいこうと、自身に誓ったのです。

私がこうした夢を持つ一方で、最近「院内学級の減少」という言葉を少しずつ耳にするようになってきました。その理由の一つは、病院という限られたスペースの中で患者をより多く救うために必要なのは、院内学級より一つでも多くの病室や設備だと考える医療スタッフが多いことです。

確かにその理由も理解できますが、私は化学的な治療だけが患者を救うのではないと思います。なぜならどんなに強い薬を使って治療したとしても患者本人に生きようとする意思がなければ病気を治す意味がなく、実際、回復することを妨げてしまうからです。

病気の子供たちにとって何より大切なのは、まずその気持ちに寄り添ってくれる仲間がいることだと私は考えます。院内学級で仲間と支え合うことで、院内学級に通いたいという思いが生きる希望となり、病気を治す力につながるのではないでしょうか。

だからこそ私は、たとえ病気は深刻な状態であったとしても、子供たちに一人ではないという安心感と笑顔、そして希望を与え続けたいのです。

もちろん、障害のある私にとって、この夢を実現させることはたやすいことではありません。しかし、何度も絶望し、それでも希望を持ち続けて生きてきた17年間の経験全てが、今日のこの私を作っています。これから先はこの経験を生かし、夢を実現させるために一歩一歩確実に夢に向かって歩んでいきます。

そして立派な教師になるのではなく、ただ寄り添える先生になりたいです。

ご静聴ありがとうございました。

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