弁論を読む

<優勝>私は回遊魚

福井県立盲学校 高等部専攻科理療科3年 松田 えりか(27)

「回遊魚」という魚を知っていますか。おそらく多くの方は聞いたことがあると思います。サケという魚は回遊魚の中でも変わった特徴があります。彼らは産卵の頃になると、幼い頃を過ごした生まれ故郷の川に戻ってくるのです。遠く離れた海から、故郷の川の独特の匂いを頼りに、間違いなく生まれ故郷の川に戻ってくるのです。1匹くらい故郷への帰り道を忘れて、1人さまようあわれなサケが居たっていいのに。こんな呪縛のような考えにとらわれるようになったのは、私の兄姉(きょうだい)が2人そろって教師になったことがきっかけでした。

私の両親は教師をしています。兄姉もそろってその道に進んでから、私は家に居場所を見つけられなくなりました。食卓で交わされる会話は学校の話ばかりで、会話に入ることができませんでした。周囲に自分が障害者だってことを知られちゃいけない、兄姉2人に迷惑をかけちゃいけない、と毎日そんなことを考えながら過ごしていました。当時、兄姉は私の病気について知らされていなかったので、私が何かをこぼす、蹴飛ばすといったことがあるたび、容赦ない言葉が私に降りかかりました。そしてそんな私をいつもかばってくれるのが母でした。

私は昔から母が大好きで、よく一緒に出掛けました。しかし母の知り合いに出くわし「娘さんも教師を?」と聞かれることが増えるようになりました。私自身、周囲の自分に対する見方も理解するようになり、「母が教師じゃなければ」「私が障害者じゃなければ」と思うことが増え、徐々に母を避けるようになりました。同時に家にいる時間もだんだんと減っていきました。

月日が流れたある日のこと、体調を崩した母にこんなことを言われました。

「えりが笑ってるとあたしもすぐ元気になれる。えりが暗い顔してると私まで落ち込んじゃうの。なんていうのかな、えりが私の主役なんだろうね、きっと」と。私はしばらくこの言葉を忘れることができませんでした。正直いい大人が主役だなんて言われて、恥ずかしいとさえ思いました。しかし、後になればなるほどこの言葉の持つ意味の強さに胸が熱くなりました。

私はこれまで白と黒、たった2色のモノクロの世界を生き続けてきました。活力もなければ、笑顔もない、何気なく世界が流れている、そう思って過ごしていました。まるで、広い海に取り残されてさまようあの1匹の回遊魚のように。兄や姉に隠された存在で、私に光は当たらないと思っていたこと、障害のある人の可能性には限界があると感じていたこと、それらが私をずっと支配しさまよわせていたのです。

しかしこんな私を母は「主役」だと言ってくれたのです。私は大切なことを忘れていました。兄でなく、姉でなく、自分がこの人生の主役だってことを。自分が主役だって思うと、光は必ずついてくる、どんなときも光は私を照らしてくれる。一瞬一瞬がなんてかけがえのない時間なのだろう。心が感じるままに笑ってみたい、喜んでみたい、心躍らせてみたい。そんな気持ちでいっぱいになりました。さらにもう一つ。どんな主役でも苦しい状況から立ち上がろうとするそのときが、物語の一番の見せ場だということにも気が付きました。私にとっては今が、まさに輝きを放つ、そのときなんだと。母は私に教師として大切なことを教えてくれたのです。

どうしてこれまで、こんな母の愛情に気が付かなかったのだろう。今までなんて情けない主役を演じてきたのだろう。言いようのない悔しさが胸を埋め尽くしました。

私は帰り道を見失い、さまよっていたあの1匹の回遊魚でした。そして私の故郷は、母そのものでした。故郷の放つ独特の匂いは母のあたたかな愛情でした。私はようやく確かな帰り道を見つけることができました。そして気づいたことは、本当の回遊はこれからだということです。どんなときも、どこにいても感じることのできる故郷の匂いが、私を前へと向かせてくれました。そして見えた先にあったのがこの盲学校でした。

私は回遊魚です。生まれつき輝かしいひれをもち、まばゆい光を放つ熱帯魚ではありません。ただがむしゃらにひれを動かし、前を見つめる回遊魚です。これまで流した涙も無駄ではありません。だって、私の前に川を作ってくれるから、海を作ってくれるから。これから私が進む新たな道となってくれるから。

私は今、この盲学校で心躍らされる出来事にたくさん出会うことができました。心から笑い合えるとても大切な友人にも出会うことができました。そして新たな目標も。母のようにあたたかい心を持って視覚障害者の教育に携わること。

私の回遊は始まったばかりです。ここから大海原に向かって泳ぎ続けて行きます。いつも心にたくましく輝き笑う故郷のことを抱きながら。(まつだ・えりか)

<準優勝>未来へのとびら

兵庫県立視覚特別支援学校 高等部普通科3年 石井 千月呼(18)

皆さんは自分の障害で悩んだことはありますか。高校生になったころから、私は自分について悩むようになりました。それは、「どうして私は視覚障害を持って生まれてきたのだろう」という答えの出ない問いでした。

家に帰れば、障害があるのは私1人。家族で外出した時、自分だけ周りの様子がわからないこと、バイキングでは、誰かに付き添ってもらわなければならないこと、買い物に行っても、どのようなものかがわからないことなど、日常のささいな場面で、悔しさを感じるようになりました。しかし、家族には決して、悩みを打ち明けませんでした。「私がこんなことで悩んでいると知ったら、母が悲しむのではないか」。そう思ったからです。つらくなったときには、トイレにこもって、声を殺して、1人泣きました。

しかし、高校1年生の春休み、とうとう我慢できなくなって、家族の前で涙を流してしまいました。コップの水があふれだしたように、涙が止まりませんでした。「どうしたん?」「なんかいやなことでもあったん?」と母に聞かれました。私は素直になれず、「何(なん)もない」と言い張りました。しかし、普段私が見せたことのない姿に驚いたのか、母は問い詰めてきました。「お母さんには関係ないことやからほっといて。どうせ言ったってわからへんし」。混乱した私は、ひどい言葉を投げつけました。それでも、母は、ずっと私のそばにいてくれました。何時間か泣き続けたのち、本当の気持ちを打ち明けました。母を悲しませたくない、そう思い続け、一度も打ち明けたことのなかった自分の気持ちを吐き出した時、胸の中にあったものが少し軽くなったような気がしました。母は私の気持ちを知り、「つらいこともあるよな。でも、家族がついてるから大丈夫。一緒に頑張ろう」と言って抱きしめてくれました。その時私は、父と母の子供でよかった、と心から感じたのですが、正直、これだけではふっきれなかったのです。

ふとした時に涙はあふれ、そのたびに「私には、温かい家族がいる」と自分に言い聞かせました。夜になり、1人になると、いつも涙の嵐でした。まぶたは腫れ上がり、頭痛もしました。

「どうして私だけ目が悪いんだ。もし普通に見えていたら。1人で出かけて、1人で買い物をして、何気ない周囲の様子に笑って」「なんで私だけが」ということだけがずっと頭の中を回っていました。最後には、涙を流す理由すらわからなくなりながら、泣き続けていました。

しかし、ある日、ふと気づいたのです。「こればかりは、仕方のないことなんだ」と。私は泣いている自分が、ばからしくなりました。「泣いたからといって、目がよくなるわけじゃない。泣いて解決することではない」「確かに、目が悪ければほかの人と同じようにできないことがある。でもできないことを不幸と思うより、代わりに自分ができることを増やそう」。そうポジティブに考えられるようになったのです。

私は、英語が大好きです。将来は、英語に携わる仕事に就きたいと考えています。夢をかなえる第一歩として、「大学に行く」と決めました。海外に友達を作りたい。オーストラリアに一人旅をしたい。留学して、さまざまな国の人とふれあい、その土地の空気や文化を体で感じたい。たくさんの目標もできました。

私は、自分と向き合ったことで、一つ成長できたと思います。人生はいいことばかりでなくてもいい。大変なこと、つらいことが自分を強くする。苦しみの先には、必ず幸せが待っている。そう信じています。さあ、20年後、38歳の私はどこで何をしているのでしょうか。(いしい・ちづこ)

<3位> 私を変えてくれるもの

栃木県立盲学校 高等部普通科3年 木下 歩(17)

アニメ好きで、自他共に認めるアニメオタクだった私は、中学校に入学してすぐに、視力が大幅に低下し、盲学校に転校しました。転校が決まるまでの数カ月間、自分の視力や将来への不安で何度も泣きました。でも、盲学校では同じアニメオタクの友達ができ、抵抗なくスタートすることができました。

中学部の部活動は全員参加でした。しかも陸上部。アニメやゲームが好きで、家で過ごすことの多かった私はしぶしぶ走り始めました。そんな中、高等部の先輩が全国障害者スポーツ大会に出場し、メダルを取ってきました。

「へーっ、本当に全国大会に出られるんだ。自分も頑張れば出るチャンスがあるかもしれない」。それからは、全国大会を意識して練習するようになりました。

中3、高1と走り続け、高2のときには体育科の先生が、県に推薦してくれました。希望者は多いので、どうかなあと思いながら、練習していた7月のある日、先生が言いました。「スパイク注文するから」「よっしゃー!」。内心ガッツポーズを決めました。

しかし、この後待っている地獄の日々を、このときの私はまだ知りませんでした。

それからはハードな練習の日々。次々と出される練習メニュー。普段、家で運動しない私にとって、あまりにつらい練習に、つい不満を口にすることもありました。肩や足に痛みが出たりもして、サボりたくなり、実際、先生が会議などで来れず、1人で練習しているときにはこっそりメニューを省くこともありました。

一方、県の強化練習やミーティングで、他(ホカ)の選手と知り合うにつれて、その練習量に驚くとともに「スキあらばサボろう」とする自分が県の代表として出ていいのだろうか?という恥ずかしさを感じました。同時に、選手団の中で高校生の視覚障害者は私だけだったので、他の県の選手はどれだけ速いのか、速い人と走れるという期待もわいてきました。それからは、やれることはやろうと練習に励んだのです。

いよいよ本番当日。200メートル走です。招集所で先生と別れ、トラックに移動するまでの時間が異様に長く感じられました。緊張しすぎて、不安や失敗するのではとマイナスなことばかり考えてしまいます。心臓がばくばくして、壊れるのではと思いました。前の組から順にスタート。待っている間も体を動かしておけと言われたのを思い出し、動くと少し楽になりました。いよいよ、私たちが走る番です。ナイターで、レーンのラインが見えるのか不安がありました。レーンから出ると失格になってしまう。それを思った瞬間、また、緊張と不安がこみ上げてきました。スターティング・ブロックの調節をし、スタートの練習。数歩だけ走りました。

そのときです。今から速い人と走るんだ、どれだけ速いのか楽しみだ、というわくわくした気持ちや期待がわき上がり、緊張や不安よりも勝(マサ)ったのです。その気持ちのまま、スタート。

第7レーンにいた私は、先を走る人に全く気付きませんでした。残り100メートル。直線に入ると、前に人がいます。まずい!無我夢中で走りました。背中がだんだん近づいてくる。真横に並んだ。ゴール。どっちだ?

同着か負けたか……。結果は1位。やった。実に熱く、爽快な戦いでした。家族や選手団の方たちも喜んでくれて、よかったと思いました。

終わった後、先生が、「これで全国にライバルがいるって分かっただろう」と言いました。その瞬間、スポーツを通して、全国の視覚に障害のある人たちとのつながりを感じました。 私はそれまで自分の世界にこもることが多く、人との関わりを積極的に持とうとはしてきませんでした。しかし、このとき感じた「つながり」は、何だかとてもうれしくて、心にしみるような温かさでした。誰かとぶつかり合って汗を流す。これぞ青春だ!という充実感でしょうか。

翌日の100メートル。前日、200で競り勝った選手と走り、2位でした。200では勝ったのに、100では負けたという悔しさがありました。

こうして終わった全国障害者スポーツ大会。県や市からの表彰。つらかった練習の日々。家族や選手団の方たちの笑顔。選手団の中では成人の方とも仲良くなりました。障害があることを気にせず、明るく堂々としている姿に、どうやったらあんな風になれるんだろうとあこがれを抱きました。

3週間後には 関東地区盲学校陸上競技大会に出場しました。全国大会とは違い、障害等級による組分けが細かく設定されておらず、私は自分よりも視力のよい選手と走りました。結果は2位。上には上がいると分かり、悔しかった! 目の見え方なんて関係なく、1位をとりたかった。私は前にも増して、がぜん、やる気が出てきました。来年に向けて頑張るぞ。また全国大会で1位を取るぞ。

私の学校は少人数で、速さを競える相手がいません。でも、全国にライバルがいる。日本のどこかで頑張って練習している人がいると思うと、自分の練習にも自然と力が入ります。

積極的に人と関わることで、こんなにも自分に変化があるとは思いませんでした。人とのつながりを大切にしながら、消極的な自分をあらゆることに積極的な自分に変えていきたい。

今の私にとって、自分を変える起爆剤が走ることです。つらくてもサボりたくても頑張る自分、逃げない自分を目指します。(きのした・あゆむ)

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