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全国盲学校弁論大会特別協賛

弁論を読む 第83回(2014年) 全国盲学校弁論大会

<優勝> 守りたい

福岡県立福岡高等視覚特別支援学校高等部普通科2年 柿野明里(カキノアカリ)(17)

皆さんが今、大切にしているものは何ですか。決して失いたくないものはありますか。私には、お金や自分の命に代えても、失いたくないほど大切なものがあります。

私は生まれながらの弱視で、肢体不自由という障害も生来のものです。そのため、幼い頃から一歩踏み出せば、私の歩き方に後ろ指を指され、障害者とは非難されるものなんだと、深く植え付けられてきました。小学校、中学校と、一般の学校に通っていた私は、周囲の人たちの顔色ばかり気にして、黒板の文字が見えず、友達にノートを借りたいと思った時も嫌われるのを恐れ、頼みごともできずにいました。ただ、目立たないように、反感を買わないようにと、自分を偽ることで精いっぱいでした。今思うと、障害者である私自身が、障害者という存在を認めていなかったのかもしれません。

私には、健常者の姉と障害のある母がいます。当時の私は、そんな姉を憎らしく思い、障害者である自分の母親でさえも、恥ずかしいと感じてしまうほど、心がゆがんでいました。私が「学校を休みたい」と言っても、背中を押すことしかしない母。同じ障害を持っているのに、何も分かってくれない。「どうして私は障害者なんだろう。障害者じゃなければこんなにつらい思いをせずに済んだのに」。障害者として私を産んだ母が憎い、健常者として生まれてきた姉が憎い。家族なのに私の苦しみを分かってくれない2人が憎い。でも本当に憎かったのは障害のある自分の体。私は苦しくて何度も、自分の手の甲を切りつけました。母と姉、どちらでもいいから、一番身近な2人に私の苦しみを分かってほしかった。そして一緒に背負ってほしかった。

それからの私は頑張ることをやめました。学校に行っても、一日中窓の外を眺めて過ごしたり、全てがどうでもいいというような毎日でした。家に帰っては、自傷行為を続け、「助けて」と無言で叫ぶ。「今の現状をほんの少しだけでも変えるきっかけがほしい」。疲れ果てた私は、最後の望みをかけて母に助けを求めました。「もう、限界なんだ」と。母は少し黙って「転校、する?」と言いました。それは、何よりうれしいひと言でした。

早速、転校手続きを済ませ、特別支援学校に通い始めました。そこには、私と同じように障害のある生徒たちがいました。先生方も優しく受け入れてくれて、初めて「温かい」と思える人たちと出会えました。特別支援学校で過ごしていく中で、次第に心が軽くなり、自分でも感じるほどに笑顔が増えました。そして、それまでほとんどなかった家族との会話が、以前とは比べものにならないくらい増えました。

そうなって初めて、気づいたことがあります。私だけでなく、姉も友達との人間関係に疲れ、精神的にぼろぼろだったこと。母は私が苦しんでいることに気づきながらも、背中を押すことしかできない自分に悩んでいたこと。そして何より、体力的、精神的に私の何倍も疲れていたこと。

2人が苦しんでいたことを知った時、私は胸が張り裂けそうでした。自分のことで精いっぱいになり、母と姉のことを何も見ていなかった、見ようともしていなかった。今まで生きてきた中で一番、自分を情けなく思った瞬間でした。

私が中学1年生の時、両親が離婚しました。その時、障害のある母の負担にならないようにと、父親についていくことを決め、それを母に告げると、母は涙声で「千晶と明里、1人でも欠けたら生きていけん、2人ともママの生きがいなんやけん」。そう言いながら、私の手を強く、強く、握ってくれました。その手の痛さは心地よくて、温かくて、うれしくて……。それなのにどうして忘れていたんだろう。私はもう二度と、同じ過ちを繰り返さない。こんな私を大切に思ってくれている2人の為にも精いっぱい生きていきたい。そして今度は、私が2人のことを大切にしたい。何があっても、たとえ力がなくても、私は2人を守りたい。

私と母を、力で支えてくれる天然な姉。そんな姉と私を育てるために一生懸命働いてくれる、本当は泣き虫な母。どちらも欠けてはならない大切な家族。2人のために私は今、自分にできることを精いっぱい頑張っています。決して失いたくない2人を守るために。

<準優勝> 夢を力に

奈良県立盲学校高等部普通科3年 山田陽介(ヤマダヨウスケ)(17)

今からお話しするのは、私が奈良県立盲学校に来てからの2年余りのお話です。

私は中学生までは晴眼者でしたが、突然病気に襲われました。その病名は、皆さんがあまり耳にしたことのない病気だと思います。レーベル病と言う進行性の病気です。当時の担当の先生からは、何年後かは分からないが、将来見えなくなる可能性があると宣告されたのです。

読書が好きな私、映画を見るのが好きな私、スポーツをするのが好きな私、好奇心旺盛だった私が、暗闇に一人ぽつんといるような感じでした。消極的になっていくのを肌で感じました。私は視覚障害者の中では、弱視というまだ恵まれた立場ですが、それでもその立場は嫌いです。

ある時、私は町で同級生の友達に、遠くから「おー、山田やん」と声を掛けられました。でも、その時の私は振り返ることもなく、そのまま行ってしまったのです。見えているけれども、はっきりとは見えていない自分に腹が立ちました。これから先、何が自分を幸せに導いてくれるのでしょうか?

高1の春、4月の暖かく喜びに満ちた入学式のはずなのに、心はなかなか朗らかにはなりませんでした。はっきりとした目標も夢もない。そんな日々がしばらく続きました。でも、今から思えば、そんな自分を大きく変えるきっかけを探していたのかもしれません。そして幸運にも、自分を大きく変えることになる、ある出会いがあったのです。

それは、皆さんもご存知である水泳です。その年の夏に、水泳部に入部しました。あまり乗り気ではなかったですが、みんなの誘いで入部しました。練習はきつく、なかなか速く泳ぐことができないこともつらかったのですが、夏の盲学校の大会を目標に一生懸命に打ち込みました。結果は第2位でした。ですが、それは夢を失ってから、初めて自分の力で何かを勝ち取った瞬間でした。それがめちゃくちゃうれしくて、それをきっかけに水泳にのめりこんでいきました。目標を持って、何度も大会に出場し、そのたびにタイムが速くなりました。目標を達成する喜びと自信が自分を強くさせてくれたのです。

ある時、学校の先生に全国障害者スポーツ大会が来年東京で開催されることを教えてもらい、もっと大きな大会に挑戦できると意気込み、強い気持ちで練習に臨みました。それから数か月後、放課後に体育の先生が言ったのです。「陽介、東京行けるぞ」。その時、無意識に心の中でガッツポーズをしていたのを鮮明に覚えています。しかし、冷静に考えた時、自分が県代表で行くことへの重圧と覚悟も身にしみて感じました。何といっても、全国から選ばれし怪物たちが東京に集結し、5日間戦い抜くのです。それでも、早く彼らを相手に泳ぎたくて仕方がないという気持ちの方が強かったです。そして、大会の日が来ました。会場は水泳では有名な辰巳国際水泳場で泳ぐことができました。試合の時の興奮は今でもはっきりと覚えています。会場全体が興奮と緊迫した雰囲気に包まれ、平常心を保つのが大変でした。そして、自分のレースの時です。アナウンスの声、観客の声援、それら全てが消えた感じでした。飛び込んだ後のことは全く覚えていません。気がつけば、レースは終わっていて、自分が1位だとアナウンスが流れていたのです。一瞬のことで、はっきりとした記憶はないのですが、確かに1位だと発表されていたのです。そして表彰台に立ち、メダルを首に掛けて、ゆっくりと会場全体を見渡した時、自分に誓ったのです。必ずまた6年後、戻ってくると。

私は盲学校で大きな夢を抱(イダ)くことができました。それは、6年後の東京パラリンピックで金メダルを獲るという私の最大の夢です。今も私と同じ世代のスイマーたちが、同じ夢を抱ダいて、6年後の大きな舞台に挑戦しています。私たちがこの水泳界を引っ張っていけるように努力し、私も負けないように全力で戦いたいと思います。これからどれだけ伸びるか分かりませんが、世界のトップスイマーになるために努力し続けたいと思います。

奈良県立盲学校の水泳部で泳いでいなければ、このような夢も考えられなかったですし、そもそも視覚障害者になっていなければ、この夢を抱イダくこともできなかったと思います。視覚障害者になったことを悲観せず、志高く貪欲に生き続けたいと思います。

ネバー ギブアップ マイ ドリーム。

ご静聴ありがとうございました。

<3位> 人を幸せにできる人間を目指して、今日を頑張る

徳島県立徳島視覚支援学校高等部 専攻科手技療法科2年 冨士譲二(58)

「これまで積み重ねてきたものが崩れ去り、生きる意味や目的も見失いかけた」

8年前、自分が20万人に1人しか発症しないという難病・レーベル病だと知った時の率直な感想です。当時の私は日に日に低下する視力におびえながら深い悲しみの底にいました。暗闇の中でもがき苦しんだ日々を経て、私がきょう皆様の前でこのようにお話しできるまで立ち直ったのは,商売人時代に心がけていた、「きょうを一生懸命頑張る」というモットーをもう一度実践してみたいと強く思うようになったからです。

私は鳴門市内で焼き肉店を経営していました。世間の「せ」の字も知らないような20歳(はたち)の時に開業し、52歳で閉店するまで、ただがむしゃらに仕事一筋に生きてきました。月に2日の定休日以外は朝7時から肉の仕入れに自ら出かけ、深夜12時頃まで働く。家族経営の店なので手伝ってくれていた家族には迷惑をかけることもありましたが、「ここの肉を食べると幸せな気分になる」というお客様の言葉が原動力となり、日々やりがいを感じていました。そんな自分の頑張りも功を奏したのか、店の経営は年々上向き、2人の息子を大学に行かせることもできて、地元では名前を言うと多くの方が「知ってる」って言ってくれる店になりました。

そんな幸せの絶頂期、病魔は静かに、そして急速に私をむしばみ始めました。異変に気づいたのは、8年前の50歳の時。正月の繁忙期を終えた頃でした。突然左目が見えなくなりました。最初は老眼か疲れによるものと思い込み、あまり気にも留めていませんでした。医師からは視神経炎という病名を告げられましたが、服薬で治る病気と言われたので楽観視していました。その時点で右目は見えていたので、不便を感じながらも仕事は続けていました。しかし、一向に回復する様子はなく、ついには右目の視力もだんだんと落ちてくるようになりました。いろいろな病院を転々として最終的にたどり着いた神戸大学の医師から告げられたのが「レーベル病」という聞き慣れない病名でした。ミトコンドリアの異常で視力が急激に低下するという難病です。医師からの宣告に「自分の未来はこれからどうなるのか」、そんな不安と恐怖にただただおののきました。それからわずか2カ月後、右目の視力も0・01になりました。病気の進行の速さに心がついていけません。店は妻や息子の助けで何とか切り盛りしましたが、それも限界に達しました。このままではお客様に迷惑をかけることになると、32年間の店の歴史に自ら幕を下ろしました。

自分の全てだった仕事を辞めると、心には大きな空白ができました。毎日毎日「何かせなあかん」という強迫観念に襲われ、しかし現実にはそれができないでいる自分が嫌になり、自暴自棄になりました。そんなある日、看護師さんから「盲学校に行くのも一つの方法」というのを教わり、気持ちの整理がつかないまま入学しました。それが5年前のことです。1度目の入学は結局、数カ月と続かないまま、辞めてしまいました。人は病気や障害を持つと、社会や他人が自分に合わせてくれると勘違いしてしまうようです。辞めた理由は通学時の高校生の会話がうるさく聞こえるなど、ささいなことへのいらだちからでした。

学校を辞めた後は拡大読書器を購入して、新聞や小説を連日むさぼるように読みました。しかし達成感や生産性を感じることは難しく、毎日わびしさを感じていました。そんな折、盲学校のある先生から再入学を勧められました。そのお誘いを今でも大変感謝しております。学校をやめていた時期に強く心に思っていたのは、「何かを頑張りたい」ということ。自分は32年の間、一心不乱に仕事を続けてきた。一時期は見失っていたその自信が時間の経過とともに少しずつ回復してきました。「病気がどしたんな」「目が悪くても人の役に立つことはできる」。次第にそう思うようになりました。自分から社会に合わせて融合していかなければならない、と。

2回目の入学以降、以前の仕事のように「人を笑顔に幸せにできる人間になろう」という新たな目標を見つけました。現在は専攻科手技療法科であんま師になることを目標に励んでいます。病理学やリハビリテーション医学などの授業では聞き慣れない単語ばかりで悪戦苦闘していますが、いつか「あなたにもんでもらって幸せ」って言っていただけるようなあんま師になりたい。そのためにきょうを一生懸命頑張る。今はただ、こんなことを考えながら新たな目標に向かって進んでいます。

ご静聴ありがとうございました。

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