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住友の歴史と事業精神住友の歴史と事業精神

広瀬宰平と伊庭貞剛が21世紀に問いかけるもの

第1回

文・末岡照啓

はじめに

2005年8月から12月にかけて、新居浜・大津・東京において「広瀬宰平と伊庭貞剛の軌跡」と題する巡回展が開催されますが、私はその企画・監修者となる機会をいただきました。21世紀は、経済のグローバル・スタンダード化や、地球規模の環境問題が大きな課題となっており、ちょうど別子銅山の亜硫酸ガスによる煙害問題を解決するため建設された瀬戸内海の四阪島製錬所が、操業開始100年を迎えました。これを機会に、産業と自然との調和、企業の社会的責任(CSR)など今日的テーマを考えてみたいと、明治の変革期に活躍した広瀬宰平と伊庭貞剛の思想と行動を紹介しようと思いついたのです。住友グループ広報委員会を始め、広瀬・伊庭ゆかりの新居浜市広瀬歴史記念館、大津市歴史博物館、泉屋博古館分館のご協力をいただき、これまで未公開の史料を展示することができました。関係各位に心より感謝申し上げます。

広瀬歴史記念館

思えば本年(2005年)は、広瀬歴史記念館がオープンして9年目を迎えました。建設から考えますと12年以上も館の企画・運営に携わってまいりました。今回の巡回企画展で、ようやくこれまでやってきたことの集大成ができたのかなと思っております。

今年は21世紀を迎えて4年目になりますが、それ以前の1990年代後半から2000年代前半は失われた10年と言われ、バブル経済がはじけて日本はこれからどうなっていくかわからない、非常に不透明な時代でした。今年に入って経済も少しずつ動き出して、これからわが国はどこに向かっていくのかなということを、皆さんもきっと考えられていると思います。 今日来られている皆さんは、戦後の繁栄を享受された方々と思いますが、20世紀、特に後半部分、私たちは、豊かになりたいと思って、走りに走ってきたわけです。そしてある程度豊かさというものを享受できたのですが、その豊かさの先に何があるのだろうという漠然とした不安が、皆様の中にもあるのだろうと思います。そうした時に、100年前にこの新居浜・別子銅山で起こったことをもう一度振り返ってみるならば、これから私たちが生きていく時代、そして100年先の子孫に対しても、なにがしかの答が出せるのではないのかと、最近考えております。

それでは、100年以上前、幕末・明治維新のわが国の経済状況はどういう状態だったのでしょうか。徳川300年と呼ばれる江戸時代は、海外との貿易を禁じた鎖国を国是としていました。その中で、外国にじゃまされることなく、日本的な経営をやっていたわけです。株仲間という組織を作ってみんなで相談してやるとか、金貨(小判等)・銀貨(丁銀等)・銭貨(寛永通宝等)という三つの通貨と藩札を上手に使い分けたり、藩営企業(藩の専売制)があったりという平和な経済社会が、ペリーの来航による大砲一発で、グローバル・スタンダード、つまり世界基準で勝負しようじゃないかという世界にいきなり放り出されました。そうした時代に明治の人たちはどう生きたか、この別子銅山で考えてみたいと思います。

1. 東アジアの貨幣経済を支えた日本の銅

別子銅山は昭和48年(1973)に閉山しましたが、いまから300年程前の元禄4年(1691)に開坑した世界的な大銅山でした。開坑6年目の元禄10年に、日本の産銅高が世界一になりました。約6000トンを日本で出したと言われていますが、その時の約4分の1を別子の山が出しています。鎖国下にあった江戸時代、長崎出島でオランダ・中国と貿易をしていたことは教科書にも載っていますが、このオランダ・中国が何を求めて日本にやってきたか、ということについては、載っておりません。実は彼らが欲しがったものは、日本の銅「ジャパン・カッパー」だったのです。その日本の銅が世界一になる原動力となったのが、別子の銅です。別子の銅の道「カッパー・ロード」というのは、実は世界とつながっていたわけです。別子の中持ち道が、新居浜口屋を経て大坂に行き、大坂の吹所(精錬所)で最終精錬をして、棹銅(さおどう)というインゴットで長崎に行きます。この棹銅が長崎から中国・ベトナム・インドネシア・インドそしてヨーロッパまで行ったわけです。つまり、日本の銅が世界を席巻したわけです。特に日本の銅は、湯の中で鋳造するため、あざやかなローズレッド色の酸化被膜を帯びており、その美しさが珍重されました。そのため幕末の頃、イギリスでは、モリスという人が、この製造法で特許を取り、イギリスで製造したものに「ジャパン・カッパー」という名を付けて輸出したほどです。それほど日本の銅は、世界的に有名だったわけです。この銅が、中国の銅銭になったり、ベトナムやVOC(オランダ東インド会社)の貨幣になったり、というふうに重要な産品でした。ですから、当時のオランダ商館長は、日本中の銅を集めて精錬する大坂の吹所をわざわざ見学に行っています。また、対馬藩を通じて行う朝鮮貿易では、輸出される銅(朝鮮渡し銅)は、別子銅に限るとされていました。ですから朝鮮の当時の貨幣も、おそらく別子銅です。このように、別子の銅は、地域経済を支えていただけではなく、日本経済、もっというと世界経済、特に東アジアの経済を支えていたわけです。

実は、現在の私たちのもつイメージとは大きく異なり、別子銅山に勤めていた人には、けっこう世界情勢が見えていました。彼らは、自分たちが作る銅が、長崎・対馬を通じて外国に行っているということを知っており、その逆ルートで外国の情報を得ていました。福島県歴史資料館の庄司家文書に、泉屋(住友)の長崎出店で写され、江戸出店に送られたと思われる天保15年(1844)の『和蘭別舶渡来ニ付崎陽見聞書(オランダ風説書)』(オランダが幕府に伝えた海外情報)が残されていまして、銅貿易を通じて世界情勢を得ていた様子がうかがわれます。(続く)

別子銅山絵図


棹銅(長崎輸出銅)

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