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  3. 第2回

住友の歴史と事業精神住友の歴史と事業精神

広瀬宰平と伊庭貞剛が21世紀に問いかけるもの

第2回

文・末岡照啓

2. 広瀬宰平のコーポレート・ガバナンス

広瀬宰平肖像写真

広瀬宰平は、文政11年(1828)5月近江国野洲郡八夫村(現、滋賀県野洲市)で生まれ、天保7年(1836)9歳のとき別子銅山勤務の叔父に連れられて山に登り、山の中で生活し、独学で勉強して別子銅山支配人になった人物です。彼は非常にグローバルで世界的な視野でものを見ていますが、それは銅の生産を通じて、この銅がどこに送られ、どのような意義を持っているかということをよく知っていたからのようです。ですから最近ようやくわかってきたことですが、明治維新の時、没収や売却の危機にさらされた別子銅山を、彼はなぜ、周りの反対を押し切って、あれほど懸命に守ろうとしたかというと、将来を見ていた。つまり、この銅の事業は、わが国を発展させるのに無くてはならない事業であるということを感じていたからだと思われます。宰平は、別子銅山を預かった土佐藩に対して「何ら空言は一切相成らず、諸事潔白実意を尽くし申さずては、貫通つかまつらず候」と述べたように、岩倉具視などにも正直に自分の思いを伝え、真心で人の心を動かして別子銅山の経営権を守ったのでした。そして、別子銅山の近代化によってその後の発展と工業都市新居浜の基礎を作ったわけです。

住友家総理代人委任状

もう一つの宰平の大きな仕事は、企業とは誰のものであるかということを、明治の初めに決めたことです。いわゆるコーポレートガバナンス、「企業統治」のあり方を決めた人物です。今回の企画展でも展示されていますが、明治10年(1878)の「総理代人委任状」というものがあります。「総理」というのは全てを統括するとういう意味ですが、それに対して一部を統括するという意味の「部理」という言葉があります。最初宰平は、明治7年、フランス人技師ラロックの雇い入れに関して、部理代人として雇い入れの全権を委任されます。そしてラロックを雇い、近代化プラン『別子鉱山目論見書』をつくり、それによって別子銅山の近代化を進めていきますが、その後に、全ての権限を委任しますという「総理代人委任状」をもらいます。組織が小さい間は、オーナーの指示のもとでやっていけばいいですが、組織が大きくなると、オーナーだけでは処しきれず、専門の経営者が必要になってきますが、広瀬は明治10年、その専門経営者である「総理代人(のちの総理事)」になったわけです。

住友家法

明治15年に宰平が作った『住友家法』には、よく知られた「信用確実を旨とし、浮利に走るな」ということが書かれていますが、そのあとの条文には「たとえ当主であってもふさわしくないものは廃嫡する」と書かれてあります。つまり、住友家のオーナーは場合によって使用人が選ぶことがあり、住友家法によってオーナーは、立憲君主のように「君臨すれども統治せず」と定められたのです。住友家法の精神は、広瀬・伊庭と関わりのあった人のところへ伝播しています。たとえば、明治時代の塚本家(現、ツカモト・コーポレーション)、光村家(現、光村印刷)、麻生家(現、麻生グループ)、伊藤家(現、伊藤忠・丸紅)の家法に、「信用を重んじ、確実を旨とする」「浮利に走らず」というような条文が見受けられるのです。これらは、広瀬・伊庭の関係から広まっていったようですが、それは言っていることに普遍性があるからだと思います。

3. 別子銅山の産業革命

ラロック目論見書

次に宰平の功績として、産業革命を行ったということがあります。明治維新によって、わが国の経済界は、世界市場に裸のまま放り出されました。それまでのわが国独自の制度は、グローバル・スタンダードの波をうけ、まったく通用しなくなります。このため宰平は、ラロックを雇い、技術革新によって別子銅山を近代化し、産銅コストを世界の水準に引き下げようとします。西欧が100年かかってやってきた近代化を20年で達成したわけですから、かなりのことをやったと思います。宰平は、「一意殖産興業に身をゆだね、数千万の人々と利を共にせん。」といっています。自分が儲けるためだけではなく、この国のみんなを豊かにしたいのだという思いから別子銅山の近代化を進め、産業革命を行います。そのおかげで、新居浜にも惣開に製錬所ができ、工業都市の基礎が作られたわけです。また、当時は官尊民卑がひどかった時代ですが、広瀬は、明治22年(1889)の欧米巡遊の中で、欧米に於ける実業家の評価の高さに感心し、これからは実業家が経済活動を通して国を豊かにしていく時代だという思いを強くし、帰国後、大阪商法会議所においてそのことを述べています。そして明治25年、宰平は殖産興業につくした功績により、渋沢栄一、古河市兵衛、伊達邦茂とともに、民間人として初めて明治勲章を受章しました。

山根製錬所(明治23年)

しかし、誰もが繁栄の象徴と信じて疑わなかった製錬所からの煙が、いきなり田畑を襲うこととなります。明治23年、別子開坑200年祭を記念して作られた写真帳がありますが、その中に山根製錬所の写真があります。私の最も好きな写真です。山根製錬所は、今の山根グラウンドから別子銅山記念館の場所にありましたが、山の上の煙突は、120年を超えて今も残っています。この写真が撮影されたのは5月下旬で、製錬所の手前には、麦秋を迎えた麦畑が広がっています。製錬所をつくった広瀬も、ここに写った麦たちも、これから起こることを知らないわけです。そういった意味で、この写真は、まさに20世紀を象徴する写真だと思います。(続く)

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