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  3. 第3回

住友の歴史と事業精神住友の歴史と事業精神

広瀬宰平と伊庭貞剛が21世紀に問いかけるもの

第3回

文・末岡照啓

4. 伊庭貞剛の生いたちと陽明学

伊庭貞剛肖像写真

伊庭貞剛の
誕生祝儀帳

このような時代に登場したのが伊庭貞剛です。伊庭貞剛については、皆さんもあまり詳しくお聞きになったことがないと思いますので、少し詳しくお話ししたいと思います。

伊庭貞剛は、幕末の弘化4年(1847)、宰平の生まれた家で生まれました。貞剛のお母さん(田鶴)は、宰平のお姉さんです。貞剛と宰平は19歳違いますので、貞剛が生まれた時、宰平は丁稚奉公に出て、別子銅山に来ていますので、会ってはいません。そして貞剛が7歳の時に、許されてお母さんと共に近江八幡の父(貞隆)の元に帰ります。展示してある「誕生祝儀帳」は、貞剛が伊庭家の嫡男として親類・縁者に披露されたこの時のものです。伊庭家は、近江の佐々木源氏の流れをくみ、かつて近江の南半分を支配した六角佐々木氏の重臣の家柄でした。しかし、六角佐々木氏が織田信長に滅ぼされ、各地を転々とした後、近江八幡の西宿に落ち着きました。

伊庭貞剛生家跡(近江八幡西宿)

西宿の伊庭家の屋敷は、中山道沿いにあったため、幕末のいろいろな騒ぎが、街道を通じて伝わってきました。貞剛は、児島一郎という人に四天流剣術を習いますが、この四天流剣術は文武両道を基本として国を治めるというものでした。それから貞剛は、干鰯問屋の主であった西川吉輔というかなり過激な勤王の志士の家に通い、尊皇思想を学びました。共に通った人に西川甚五郎という人がいます。「西川」(現、西川産業)の主人ですが、後に貞剛は、衆議院議員(滋賀県選出)の職を、この人に譲っています。最終的に伊庭に最大の影響を与えたのは、陽明学です。日本陽明学の祖は、皆さんもご存じと思いますが、愛媛とも非常に関わりが深い中江藤樹という人です。大洲藩に仕えていましたが、母親の孝行のため脱藩して故郷の近江高島(現、滋賀県高島市)に帰り、「藤樹書院」という家塾を開きます。近江聖人とも呼ばれ、有名な弟子に熊沢蕃山がいます。陽明学は、「知行合一(ちぎょうごういつ)」が根本精神です。つまり、知識は行動と一致してこそ真の知識である、思っていることはやらなくちゃならないというものです。この陽明学の影響を受けた人に、大塩平八郎があり、大坂の窮民救済、世直しのためにやむにやまれぬ気持ちから兵を挙げたのです。これは明治維新の志士にも通じる思想であり、伊庭貞剛の精神的なバックボーンとなっています。伊庭貞剛のその後の行動を見ると、よくわかると思います。

5. 司法官時代の伊庭貞剛

明治元年(1868)、伊庭は、会計官(のちの大蔵省)の役人になっていた西川吉輔に呼び出され、御所を護る京都禁衛隊に入るため、故郷を旅立ちます。その時、お母さんに言ったのが、「どうぞ50歳になるまで私にお暇を戴かしてください。」です。これが新政府への仕官の始まりとなります。その後禁衛隊の任を解かれ一度帰郷した時、江戸からの帰りの宰平と会い、正月を共に過ごして、天下国家を語ります。新政府出仕を決めていた貞剛は、明治2年3月、刑法官に入り、その後司法の道を歩むこととなります。その時、粟田口止刑一件という事件が起こります。日本陸軍の祖といわれる長州藩の大村益次郎の暗殺事件があって、その犯人を捕まえて首を切ろうとした時に、伊庭を含む弾正台職員が、その刑を止めたという事件です。伊庭たちは、天下の罪人の刑を止めたということで、東京に呼び出されて勘問を受けます。その勘問書が国立公文書館に残っていて、ひとりひとりの記録があるのですが、伊庭貞剛の勘問書には、「やったことは法律破りで悪いと思うけれど、やったことは正しいので、別段悪いとは思っていない。」と返答したと書かれています。正々堂々と言ったものですが、結局罪にはならず、そのまま東京在勤となり、司法省で検察官となります。

そして明治6年、函館裁判所の兼務となります。その函館で、明治7年8月にハーバー事件という大事件が起こります。開港場である函館には外国商館があり、ドイツ領事官のハーバーというドイツ人が、元秋田藩士の田崎という人物に斬り殺され、外交問題となります。その時の検事調書を取ったのが伊庭貞剛です。最終的に田崎は斬罪となりますが、その処理に当たったわけです。それが今も函館地方裁判所に残っており、今回その写しを展示していますが、「権中検事伊庭貞剛」とあります。貞剛はこの地で、最初の夫人松さんを亡くします。遺された1歳の長女はる子を近江八幡のお母さんに預け、単身勤めを果たす貞剛ですが、転任の約束をなかなか果たしてくれない司法省に腹を立て、ついに、トップである司法卿の大木喬任に直接、そのことを訴えます。その時伊庭貞剛は、「不平は公然と申し上げなければなりません。公然と申し上げられないような不平は、真の不平ではないと思います。」と言っております。まさに何事にも正々堂々と信念を貫く人だったわけです。そして明治10年、大阪上等裁判所の判事となって帰ってくるわけです。(続く)

伊庭貞剛写真(函館裁判所時代)


大阪上等裁判所判事辞令

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