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住友の歴史と事業精神住友の歴史と事業精神

広瀬宰平と伊庭貞剛が21世紀に問いかけるもの

第5回

文・末岡照啓

6. 伊庭貞剛の住友入社

品川弥二郎(『品川子節伝』より)

続いて伊庭に託された大問題が、明治26年(1893)に起こった別子銅山の問題です。伊庭はその時のことを誰にも明かさなかったし、何にも書いていませんでした。ところが、今から10年ほど前に見つけたのですが、国立国会図書館の憲政資料室にある品川弥二郎文書のなかに、品川弥二郎宛てに来た手紙があるのですが、その中に、明治29年1月5日付けの伊庭貞剛からの手紙があります。その中で伊庭は、愚痴をこぼしています。私も初めて伊庭の愚痴を読んだのですが、みなさんも、意気揚々と別子にやってきて、颯爽と去っていく、かっこいい伊庭貞剛像を持っていると思います。ところが、そこには苦悩する伊庭貞剛がいました。「友達の品川さんだから愚痴を言います。」ということで、ながながと手紙を書いています。これを読んで私は、伊庭貞剛が新居浜で詠んだ「朝かほ(顔)の かき(垣)穂のつゆ(露)の身にしあれハ くさ(草)の庵りそ すミ(住)よかりける」という和歌を思い出しました。わが身を「朝顔の垣穂の露」に見たてた貞剛の、孤立無援の気持ちがわかったような気がいたしました。

新居浜惣開製錬所

すなわち、品川宛ての手紙の中で伊庭は、明治27年に別子銅山へ赴任する適任者を捜そうとしたが見つからず、ましてや危険を承知で行こうとするものなどいなかったと言っています。当時の別子銅山は、新居浜の惣開製錬所からの亜硫酸ガスが田畑の作物を枯らすという煙害問題が起こり、会社と農民の対立が激化していました。加えて、社内では広瀬の威を借りた重役と反対派職員の派閥争いや、職員と稼ぎ人の対立など、まさに内憂外患の状態でした。だから、引き受け手のない別子に、もう50歳にもなろうとする自分がやって来るしかなかったというのです。自ら「職責を果たし、火中の栗を拾った」わけです。伊庭は「難事には自ら率先して事に当たり、難事去れば自ら退いて後任に譲る」と言っていますが、リーダーたるものは決して苦難から逃げない、私はこれが真のリーダーの条件だと思います。

また、その手紙の中で伊庭は、「別子の騒動の原因は、意思の疎通を欠いたために生じた『虫』であって、この『虫』を退治しないと鉱山が食い破られてしまう。だから農民や従業員と意思疎通を図るためには『虫退治』に行くしかない」と言っています。ましてやそれは「広瀬老人はじめ、われわれ経営トップが意思の疎通を欠いたのが原因である。だから自分は、その責任を取って意思疎通を行うために行くのである。」と書いています。赴任の心境については、「一身密かに覚悟を定め、妻を捨て、子を捨て、家を捨て、家財を捨て、一身を捨てると、はじめて自由活発なる境地に達することができ、別子に付いた『虫』くらいはなんとかなるだろう。」といっています。この言葉に似た部分が、峩山から別子赴任時に渡された『臨済録』の中にあります。「仏に逢うては仏を殺し、祖に逢うては祖を殺し、羅漢に逢うては羅漢を殺し、父母に逢うては父母を殺し、親眷(しんけん、親類のこと)に逢うて親眷を殺して、始めて解脱を得ん」と書いてあるのですが、まさにそれ程の気概で別子へ行ったのであろうと思います。

採鉱夫





しかし、そんな気概を持ちながらも、実際の行動は淡々としたものでした。単身赴任中の伊庭の元に奥さんの梅さんがやってきます。梅さんは、松さんが亡くなった後、貞剛と結婚した人ですが、なかなか男勝りの人です。彦根藩士の娘で、17歳で貞剛と結婚した時も、貞剛が止めるのも聞かず函館までついて行っていますし、明治27年、別子に赴任する貞剛に、家は自分が守るから安心して行ってきなさいと言った程、気丈な人です。その奥さんが、心配して様子を見にやって来て、「あなたは赴任以来何をしているのですか。」と聞くので、貞剛は「山に登って、鉱石を掘り取るのを見て歓び、坑夫達が汗あぶらを流して働くのを見て気の毒に思い、山から下りて、製錬銅の出来高を見て歓び、職人が汗を流して働くのを見て気の毒に思って、替わってやりたいと思うぐらいである。」と言います。それを聞いた奥さんは、大口を開けて笑い「あんた、馬鹿な仕事をしてますね。」というので、貞剛も「わしも馬鹿な仕事だと思っている。」「併しながら、小生は馬鹿な仕事がすきなり。当世は随分かしこき人は沢山ある故、余は人の嫌う馬鹿な仕事をするなり。馬鹿な仕事も時にとりては、用立事もあるべし。」つまり、「この世は、小賢しい人が多すぎる。自ら進んで火中の栗を拾おうとするような人は一人もいない。だから自分くらいがこの馬鹿な仕事をするしかないのだ。馬鹿な仕事も時によっては、役立つこともあるだろう。」と言って大笑いして寝ました、と品川に書き送っています。伊庭はそれに続けて、この手紙を読んだ後は、燃やしてくれと書き添えてありましたが、品川はそうせず大事に持っていたため、今日われわれは、このあたりの事情を知ることができたわけです。

おそらく伊庭にすれば、「馬鹿な仕事」というのは、「私心を捨ててやる」ということだったのでしょう。伊庭がやったことは、意思疎通を図ることでした。また、伊庭が赴任した時、別子銅山の従業員の中には、「広瀬の甥がやって来たからには、自分たちは処罰されるのではないか。」と思う人たちも多くいたようです。しかし、誰も処罰されない。そうやって人心掌握を図り、しだいに収まってきたわけです。つまり人心の荒廃は、人事の更迭や規則の改正だけで解決するものではない。それは単に傷口を治すだけの対処療法にすぎない。根本的に治癒するためには、身体全体を健全にする必要がある。そのために伊庭は、騒動のまっただ中に身を置いて、当事者との意思の疎通を図ろうとしたのです。  このとき、たまたま伊庭の甥の北脇重胤という人が別子銅山に勤めていました。重胤は、貞剛のお母さん田鶴を安心させるため送った手紙の中で、「おじさまが来られてから、別子銅山は静かになりました。そして今では、『山の寒い時期には登らないで、どうぞ里方ですごしてください。』と、みんながおじさまの身体を気遣うようになりました。おじさまは聖人です。」と書いてあります。甥の目にも、別子の騒動を鎮めた伊庭は聖人に映っていたようです。

また、伊庭が心配した広瀬の引退のことですが、広瀬は明治27年11月に辞表を提出します。この辞表が、今回初めて見つかったのですが、住友家の御当主(15代友純、16代友成)が、お手元でずっと持たれていました。その封筒のあて先が、伊庭貞剛になっています。伊庭から当主に届けてほしいということです。届けた伊庭は、広瀬の態度を「功成り名遂げて、身退くは、王の道也」と評し、心からその引退を祝しています。

9. 製錬所の四阪島移転

四阪島移転願書付図(明治28年)

次に伊庭が解決しなければならなかったのが、銅製錬所からもうもうと吐き出される亜硫酸ガスによる煙害問題です。普通、煙害問題が起こって考えるのは、損害賠償だと思います。実は今回、フランス人技師ラロックの『別子鉱山目論見書』を翻訳して驚いたのですが、明治8年(1875)段階で、ラロックは既に煙害問題を想定していました。「もし惣開に製錬所を移したならば、きっと農作物の害が起こるであろうから、毎年の損害賠償として3000円を見積書に計上しておいてください。」と言っています。ラロックとしては「想定内」のことであったようです。ところが、当時の経営者達は、この部分を読んでいなかったようで、伊庭自身も想定していた形跡は全くありません。ラロックは、地形的に惣開に製錬所を置くことが最も被害を少なくできると考えていたようですが、実際に起こってしまったわけです。

そこで伊庭貞剛はどうしようかと考えます。一つ考えたのは、山に移すことです。その時伊庭は、足尾銅山にいた塩野門之助を呼び戻し、意見を聞きます。塩野は、ラロックの通訳として雇われましたが、志願してフランスへ留学、帰国後して惣開に製錬所を作ります。しかし、広瀬と意見が合わず足尾銅山へ行き、日本初のベッセマー転炉を造った男です。別子銅山が好きで、給料はいらないから帰してくれと伊庭や広瀬の息子に手紙を書いています。その塩野の建言の中に、島への移転も考えられるというのがありました。それは、ひとつは買鉱製錬という考えからです。臨海部で製錬を行うことによって、燃料と原料を集めやすいということです。別子銅山の鉱石が無くなっても、よその鉱山から鉱石を買ってきて製錬ができるじゃないかという意見です。そうした意見を踏まえ、伊庭は、完全解決を目指して製錬所を移そうとします。そして塩野の建言を容れて新居浜沖20キロの四阪島への移転を決めるわけです。実は今年は、移転した四阪島製錬所の操業開始100年にあたります。

四阪島製錬所


しかし、四阪島移転というのは、とてつもない考えです。皆さんも工場の立地条件というのを習ったと思いますが、一つは工業用水のあるところ、交通の便の良いところ、労働者のいるところです。これで四阪島の立地条件を考えてみてください。まず、人がいません。ですから、家を造って、学校を造って、病院を造ってというように、町作りから始めなければいけません。莫大な金がかかります。次に水がありませんから、毎日毎日水を運ばなければなりません。唯一、立地条件として当てはまるのは、交通の便だけです。石炭は九州の筑豊炭鉱から運んでくる。鉱石は、別子の山から下ろしてくるし、別子の鉱石が無くなれば、他の鉱山や海外から持ってくるということができるわけです。だからこそ、四阪島製錬所での買鉱製錬が、昭和51年(1976)まで続いたわけです。こうした島に製錬所を持っていこうとしたわけです。(続く)

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