• 別子銅山 近代化産業遺産

    初期(人力期/歓喜・歓東坑の時代)
    1691年(元禄4年)~1876年(明治9年)

    世界有数の産出量を誇った江戸期

    元禄3年の開山以来、別子銅山は良好な採掘条件もあって、急速に発展した。数年のうちに数千人が採掘から製錬を行う一大鉱業都市が出来上がり、一時日本が世界一の産銅高を誇ったときの原動力となった。その開坑から初期の繁栄の軌跡を追う。

大露頭・歓喜坑、歓東坑・大和

銅山の発見から、初期の 坑道(間歩)にまつわる エピソードを紹介します。

大露頭 良質な鉱脈の在処を示す巨石

露頭とは、地下深くから連なる鉱床が地面に顔を出したものを指す。別子の周辺にはいくつもの露頭が見られるが、別子銅山の山頂近くの大露頭は、別子鉱床のもっとも上部に位置し、差し渡し2mを超える巨石で、赤黒い色は、良質な銅鉱であることをしめしている。

別子銅山は、関東から九州へと抜ける日本最大級の大断層「中央構造線」のやや南に位置する。中央構造線の北と南の地質は、地質学的にまったく異なり、約一億年前に両者がぶつかる形で中央構造線が形成された。そのとき発生したエネルギーが地下で激しい火山活動を促し、マグマの熱で変成してできたのが別子鉱床だ。地層の間に薄い層をなす層状含銅硫化鉄鉱床(キースラーガー)で、世界的にも顕著な形状から、別子型鉱床と呼ばれることも多い。 大露頭周辺の地層は、見渡すかぎり斜めに走っており、この地に起こった大規模な地殻変動をかいま見ることができる。

巨石
巨石

歓喜坑・歓東坑 江戸期200年、住友の事業を育んだ主要坑道跡

元禄3年(1690年)、秋、住友が経営する吉岡銅山(岡山県高梁市)の手代田向重右衛門は、四国山中に有望な鉱脈があるとの知らせを聞き、船で瀬戸内海を渡り、海抜1,200m級の険しい赤石山系の小箱峠を越えて別子山村の弟地(おとじ)に到着した。さらに銅山川の源流に向かって川を遡り、うっそうとした密林を進んだ果てに、地面に飛び出した露頭を発見した。そこが歓喜間歩(坑道)である。標高およそ1,210m付近。その名は、重右衛門一行が発見に際して抱き合い、歓喜したことにちなんでいると伝えられている。

歓喜坑のすぐ脇に歓東坑が穿たれ、2本の坑道は、明治に至るまで200年間、別子銅山の主要坑道として機能し、ここから運び出された鉱石は、やや下った谷筋に設けられた吹所ないし、床屋と呼ばれた製錬所で粗銅に製錬された。

坑口は、明治期に新しくできたアーチ型の坑口とは異なり、丸太をマス型に組み、小丸太材(矢木)を並べて地山の崩落を防ぐ「四つ留」工法で、坑口から数組の支柱には、それぞれに神仏をまつり、地中での安全加護を祈願していた。現在の歓喜坑、歓東坑は、2001年に復元修理されたものである。

歓喜坑
歓東坑

大和間歩 開坑当初の面影を伝える坑口

大和間歩の坑口は、大露頭から数mの場所にあり、別子銅山でもっとも標高の高い場所にある坑道である。元禄4年(1691年)、歓喜坑・歓東坑に続いて開かれた古い坑口で、原形をほぼ留めていると見られる貴重な遺跡である。

現在は中に入ることはできないが、坑道に入って進んでいくと山の北斜面へ抜け出る。分水嶺の北側は、西条藩領の立川山村で、寛永年間(1624〜1643年)に、同地の村人によって開坑されたと伝えられる「立川銅山」である。

すなわち、別子銅山と立川銅山の鉱脈は同じもので、その南北から採掘していたものである。掘り進めるうちに、地中で抜け合うこともしばしばあって、鉱業権を巡って大論争となったこともあった。

北斜面にある立川銅山は、採掘条件があまりよくなかったため、銅山の経営は次第に悪化し、運営する大坂屋は、延享4年(1747年)頃、住友を訪ねて立川銅山を譲渡したいと申し入れる。数度の交渉の末、両家の間で条件がまとまり、宝暦13年(1704年)、住友家が銅山の運営を一手に引き受けることになった。

坑口
坑口

当時を振り返る 山中に出現した一大製錬工場

墨癡による別子銅山図屏風の下絵として描かれたもの一部
墨癡による別子銅山図屏風の下絵として描かれたものの一部。採鉱・選鉱・製錬などの様子が巧みな亜筆致で描かれている。(住友史料館蔵)

旧別子では、鉱石を掘り出すだけでなく、そこで選鉱や製錬も行われていた。鉱石を掘り出すのは、もちろん手作業で、軽易な道具を手に、坑道を削り取るように掘り進めていった。これを坑口から運び出し、砕いて銅を含む部分を選別する。この選鉱を担ったのは、女たちだった。

さらに、選鉱された鉱石は硫黄分を抜くため焼き窯で蒸し焼きされて焼鉱となる。焼鉱は、鉄などの不純物を除去するため、土中に掘った吹床(炉)で二工程の製錬が実施され、純度90%の粗銅(荒銅)が完成する。

別子山村は、こうした工程を担う焼窯が300、製錬所の「床屋」が数十もその軒を連ね、一大製錬工場の体裁をなしていた。そのため、山間の狭い場所に稼人とその家族など数千人が暮らす鉱山町が出来上がり、焼竈が立てる煙が、一帯を覆っていた。

製錬された粗銅は、急峻な山道を人手で下ろされ、船で積み出されて、大坂の住友銅吹所で純度99%まで高められた。最終的に、棹銅の形に鋳造され、輸出用として長崎に運ばれたのである。

大山積神社

数千人が暮らす鉱山町の守り神として崇敬された「山の神」を追う。

別子銅山の繁栄を見守り続けた守護神

別子銅山には、多くの寺社が存在した。金比羅社、稲荷社、祇園社など多くの神々が勧請されて祀られていたほか、先人の菩提を弔う観音堂や地蔵尊を祀る地蔵堂もあった。その最大のものが、鉱山の守護神の大山積神社(山神社)で、鉱山に暮らす人々の多くの願いを託されていた。 写真は、当初の鎮座場所跡の今昔。

守護神
守護神

信仰集めた山の神

大山積神社は、別子銅山の守護神である。元禄4年(1691年)の開坑時に今治市沖の大三島にある大山祇神社から分社し、別子山村足谷に奉伺したもので、主祭神の大山積神(オオヤマツミ)は、山の神、海の神、戦いの神として知られる。

開山から四年後の元禄7年(1694年)の春、山役人の番所付近の焼き竃から火が出て、折からの旱天で乾燥していた草木に移り、またたく間に付近に燃え広がったのである。この火事で床屋八軒を残し、山内の設備はすべて焼失。焼死者は132人に上った。

鉱山町の再建にあたり、住友は、大山積神社を再建し、鉱山運営の鎮護を願った。当初、社は鉱山町の全域が見渡せる高台(延喜端 えんぎのはな)に築かれ、明治25年(1892年)まで、ここで鉱山の繁栄を見守ってきた。坑口にも神棚が祀られ、鉱夫たちは坑道に出入りする際、拝礼を欠かさなかったという。

その後、採掘の中心が移動するたびに、大山積神社も遷座を繰り返した。明治25年、目出度町への遷座に続き、大正4年(1915年)には、採鉱本部の移転と共に東平(とうなる)へ、昭和3年には麓の川口新田(山根)に遷座した。閉山した現在も、この場所で新年祭と5月9日の春期例大祭が住友各社によって行われている。

大山積神社
現在の新居浜市山根に建つ大山積神社。右手には別子銅山記念館がある。
大山積神社
明治25年、目出度町のそれまで勘場(鉱業所本部)があった場所に遷座した大山積神社。

大災害の記憶を伝える 山上の遺構

蘭塔場

蘭塔場
旧別子を一望する高台に築かれた蘭塔場

大山積神社とともに別子銅山の宗教的な主柱となっていたのが蘭塔場である。一般に蘭塔場とは墓を意味するが、別子銅山では元禄7年(1694年)の大火災で殉職した人々の墓所をそう呼び習わしている。

火事の知らせを受けた田向重右衛門らが現金や救援物資を携え別子に急行、生き残った労働者の救護と銅山の復旧に尽力したが、銅山の運営がようやく端緒についたばかりだっただけに、その損失は大きな痛手となったに違いない。住友家は、この事態を非常に悲しみ、旧勘場(鉱業所本部)の沢下に蘭塔場をもうけ、亡骸を埋めて犠牲者を手厚く弔った。

明治維新後、蘭塔場は旧別子を見下ろす高台に移された。大露頭近くまで別子銅山を上ると蘭塔場のコの字の石垣を見下ろすことができる。

別子山上の蘭塔場は、昭和5年(1916年)の採鉱本部撤退にあたり、域内の墓石を新居浜の瑞応寺に移し永代供養できるようにした。そのため、現在の蘭塔場は遺構となって訪れる人も少ないが、毎年お盆になると、住友では蘭塔場に登山し、先人の苦難に感謝する盆供養を営んでいる。

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