新居浜編 その1

別子銅山のある町「新居浜市」を訪れる

別子銅山記念館
別子銅山記念館

伊予(松山)の赤石山系の中で発見された大鉱脈が眠る山。別子銅山の採掘を幕府に出願した住友家は、許可が下りた元禄四年(一六九一)八月、開坑にこぎつけた。

住友四百年の歴史の中で、大飛躍に向けた記念すべき年といえる。そして、この開坑から三百年あまりの昭和四十八年に閉山するまで、幾多に及ぶ苦難を乗り越えながら日本屈指の銅山として君臨してきた“宝の山”だ。 そんな変遷を記し、一大産業遺跡として今に伝えているのが新居浜市内にある「別子銅山歴史記念館」。そして幕末から明治にかけて、住友家で采配を振った別子銅山の支配人(後、総理事)広瀬宰平(ひろせさいへい)を顕彰する「広瀬歴史記念館」の二つがある。

記念館はいずれも、新居浜市の高台にあり、「別子銅山歴史記念館」は銅山に向かう山麓、銅山開坑以来の守護神が祀られた大山積神社の境内に昭和五十年に住友グループが造った施設だ。建物は山肌に埋もれるように、半地下形式で造られていて、屋根の上にもサツキが植えられ、いかにも銅山の記念館らしい、しっとりした雰囲気がある。
銅山関係の展示品の中で、「螺灯(らとう)」と呼ばれる小さな小道具。これはサザエの殻に鯨油を入れて、開口部を灯心のついた蓋で閉じたものだが、暗闇の坑内の照明具だ。明治二十八年くらいまで別子銅山で使われていたという品で、海に近い銅山ならではの小さな照明具で、坑内で働く人たちの手垢が染み込んで黒ずんでいた。

一方の広瀬歴史記念館も程近いところにある。ここからの眺めは、臨海部に広がる工業地帯、背後の山をふり返ると悠然とそびえる赤石山系が望める絶景の地だ。同記念館の関係者は「ここから眺める風景全体が、近代日本の産業勃興期のメモリアルパークと言えるのではないでしょうか」と説明し、また「新居浜市を日本の近代資本主義の縮図と表現できると思います」ともいう。
記念館の最初のホールには、険しく切り立った別子の山中を、黒煙とともに走る上部鉄道(明治二〇六年)の大きな写真が目に飛び込んでくる。実に迫力がある。そしてホール左右の壁面に、それぞれ窓がある。そこを覗くと巨大な筒のような先が額縁のようになっていて、新居浜市の遠景。反対側の窓を覗くと赤石山系の山並みが見える。
屋上に突き出た塔が、巨大な潜望鏡の役割を果たし、塔の上では海側と山側に鏡が向けられ、それがホールの二つの窓に映像を落としているのだ。正にマジックミラー。

広瀬歴史記念館
広瀬歴史記念館

それにしても三百年余の長い歴史を秘めた一大産業の遺跡が眠る別子銅山。公害や環境対策も日本の先端を走り続けた住友の歴史。鉱業、建設、機械、金属、化学、石油コンビナート…が点在している現在の新居浜市。これら日本の近代産業が、ここを起点に系統樹のように派生して行ったのも、別子銅山が生み出した力である。

別子銅山と広瀬宰平

別子銅山と広瀬宰平

海抜千三百メートルの山を越え、斜めに深く長く帯状に貫く鉱床は、世界でも稀な大鉱床といわれる。それが別子銅山だ。

「五十七年、夢の飛ぶがごとし」住友家総理代人・広瀬宰平は、自著「半世物語」の中で、半世紀以上にわたり守り抜いた別子銅山を、こう記した。
元禄四年(一六九一)から昭和四十八年(一九七三)閉山までの約三百年の間に、推定で約六十五万トンの銅を産み出した“宝の山”である。

この間、営々と掘りつづけた総坑道の延長距離は約七百キロ。掘りも掘ったりの距離だが、今の東京から岡山辺りまでの距離に匹敵するのだから凄い。採掘現場も山の底を掘り抜き、海面下約千メートルに達した。余りにも掘り過ぎたため、坑道深化による地熱の上昇(摂氏五二度)と地圧による坑道の崩壊などの危険性が生じたため、昭和四十八年に採掘を中止。そのまま閉山へと繋がった。

別子銅山と広瀬宰平

長い年月を掛け、鉱夫たちが交代しながらノミを振るう手掘りから、明治期の“盛山棒(せいざんぼう)”という鏨(たがね=ノミに似た工具)を使って岩盤に穴を明け、火薬を装填して破砕する坑道掘り。これが鉱夫たちが残した足跡であり、作業の証だ。

その銅山に登る。山には古い時代の死者たちが多数葬られている。不慮の大火や水害などに遭遇した犠牲者を祀る供養塔にぶつかった。ガイドを務める小笠原勇機さん(六六)は、そのつど「ここに差し掛かると、必ずお線香を供えます。登山する方にも供えて貰っています」と線香をくゆらせ真っ先に手を合わせ、登山者もそれに続いた。小笠原さんの説明を聞きながら、かつては北の方向に流れる地層に沿って、坑道を掘り進める男たちがいて、採掘された銅鉱石を運ぶ男女がいた。その息づかいはもはや、深い緑の樹木に覆われ消えている。しかし、間歩(まぶ=坑道)跡が幾つも残されている。

別子銅山と広瀬宰平

息が上がる急坂の登山路を何度か立ち止まる内、目の前に大きな坑口が迫った。元禄四年(一六九一)に掘り進められた「歓喜坑」。現在はその隣にある二番目に掘られた「歓東坑」ともに遺跡として保存されている。「このふたつの坑道を中心に、江戸時代を通じて銅山の採鉱本拠地を形成されたと言われる。
歓喜坑の上の方に「山方」と呼ばれる坑内で働いていた人々の集落があり、下流の小足谷には当時を偲ぶ味噌や醤油、酒を作る醸造所、そして子供らの学び舎(小学校)の遺跡もあった。

約三百年にわたる長い間、住友という一企業によって採鉱された鉱山は世界にも例がなく、近代遺産としてその稼行の跡を別子銅山は今に伝えている。
そこには、苦難の時期に怯む事無く、果敢に立ち向かった別子銅山の支配人、後の初代総理代人・広瀬宰平の存在を忘れることはできない。

別子銅山の危機

広瀬宰平
広瀬宰平

別子銅山を売る! そんな衝撃的な話が浮上したとき、猛然と反対、涙してその非を説きながら撤回させたのが、別子の支配人(後、総理人)広瀬宰平である。

徳川幕府が崩壊、明治維新の激動期に入るや住友家も最大のピンチを迎えた。諸大名に命ぜられ用立てていた御用金の回収が不能となり、また関係の深い各藩の藩札も暴落するなど、住友家の屋台骨が大揺れの事態に陥った。
累代の家宝・什器類まで抵当に入れ、銭佐(銭屋佐兵衛)両替店から千両程の融通を受け、ようやく急場を凌ぐという窮状だった。そして最後の策として上がったのが重荷になっていた別子銅山の売却案であった。

外からの軋轢もあった。慶応四年(一八六ハ)二月、幕府領だった別子銅山を土佐藩が接収、新政府の管理下に置こうとし、薩摩藩も大阪本店の銅蔵を封印した。広瀬はこれらの動きにも、何ら臆することなく力説、売却案を阻止した。

広瀬の自伝『半世物語』によると、土佐藩の隊士・川田元右衛門(後の川田小一郎日本銀行総裁)に面会した広瀬は「別子はなるほど幕領ではあるが、銅山は住友家の自力経営であるばかりではなく、別子の事業を差し押さえることは国家の大計に反する」
こう主張して認めさせ、別子稼行継続の許可を得た上、大阪本店の銅蔵の封印を解かせたという。激動期には激動期にふさわしい人物として、広瀬は登場したが、一方の川田も広瀬の説得に共鳴した背景には、新時代を見通す先見の明があったのだろう。

だが、広瀬の前にはまだ大仕事が待ち受けており、別子銅山の経営建て直しなどが迫られていた。
この難局をどう打開するか。広瀬がまず掲げた方策は経営の近代化だ。明治四年には製銅販売の神戸出店(後に支店と改称)を開設して、外国商館との直取引の道を開く。そして銅吹き所を大阪から別子山ろくの立川山村に移し、作業などの合理化をはかった。

別子銅山の危機

だが、改革の第一の目標は産銅の増加である。それには別子銅山の採鉱や製錬法の洋式化をはからねばならない。明治七年(一八七四)フランス人技師ルイ・ラロックを雇い、銅山の近代化計画を指示した。それが完成すると、外国人技師指導なしでは開発は進まない、というラロックの提言を断り、日本人技師を養成して、別子の開発を進めようとし、日本人店員二人をフランスの鉱山学校に留学させた。
鉱山開発技術を日本人の手で高めることで、別子の経営の安定を図るという信念に基づくものである。

銅山と新居浜市の海岸部を結ぶ運搬経路を作り、やがて牛車道が蒸気機関車の走る鉱山鉄道へ、と広瀬の描く近代化路線は進化を遂げていくのだった。

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