新居浜編 その3

住友の近代化を実現した伊庭貞剛

“石山の高士”と呼ばれ、歌人・川田順に「心の人、徳の人」といって人望の厚き人物として称賛された二代総理事の伊庭貞剛。前号でその辺りの事に触れたが、総理事に就任してからの伊庭は、在任四年という歳月の中で、住友の経営基盤強化のために尽力した。そして「事業の進歩発展に最も害するものは、青年の過失ではなくて、老人の跋扈(ばっこ)である」と五十八歳で勇退。後進に道を譲ったが、引き際の見事さに、周囲から惜しむ声が上がったという。

初代総理事・広瀬宰平の甥にあたる貞剛は、現在の滋賀県近江八幡市に生まれた。司法官を志して、大阪上等裁判所判事にまで累進した。「住友の歴史」刊などによると、当時の官界の無力さに嫌気がさした伊庭は、明治十二年(1879年)に官を辞し、叔父宰平の勧めもあって住友入り。三十三歳で本店支配人に就任し、住友人としての第一歩を踏み出した。

その後、同二十七年には宰平に代って住友家の諸事業を主宰するまでになり、三年後には総理心得、さらに三年後の五十四歳で第二代総理事に着任したのである。多少は叔父の影響もあったかも知れぬが、伊庭の人格と才能がいかに優れていたかを窺い知ることができるほどのスピード出世だ。

総理事となって真っ先に取り組んだのは、住友の経営の近代化を図ることであった。経営組織の改善や事務処理の合理化に着手した他、私立学校や私立病院の設立。また画期的ともいえる別子銅山の諸施設の拡充と整備に力を注ぐなど文化、教育面にも重点を置いた。それは住友の未来像を考えての施策と言えるもので、最も注目されるのは人材の外部招へいを含め、若い人材の育成と登用にあった。

住友史料館副館長・末岡照啓氏は、こう解説する。「初代総理の広瀬宰平は、変革期に相応しい人材として、即戦力を採用しています。しかし、伊庭は安定期だったこともありますが、五十年、百年先を見据えた若い人材の確保に力を入れました。同じ中途採用でも、伊庭は官吏に飽き足らない志を持った若い人材を多く採用しています。」

確かに、伊庭が採用した内務官僚出身の鈴木馬左也は三十五歳、中田錦吉(三十六歳)、小倉正恆(二十四歳)などはいずれも若く、後の歴代総理事を務めるほどの才望溢れる人物だ。初めて住友生抜きの総理事・古田俊之助が誕生したのも、その延長線上にある。
その結果、住友家事業の組織や制度は、これら有力な人材を核として一段と進展したことは言うまでも無い。今に通じる「事業は人なり」を伊庭は実践したのである。

伊庭貞剛は国家に恥じない「国家百年の事業を計らねばならぬ」と言う住友精神を忠実に守り「企画の遠大性」にこだわり続けた。それは二十一世紀の環境問題を予見したような取り組みであった。

三代総理事 鈴木馬左也
三代総理事
鈴木馬左也
四代総理事 中田錦吉
四代総理事
中田錦吉
六代総理事 小倉正恆
六代総理事
小倉正恆
七代総理事 古田俊之助
七代総理事
古田俊之助

CSRを先取りした伊庭貞剛の情熱

別子銅山 植林前
別子銅山 植林前
別子銅山 現在
別子銅山 現在

住友の事業精神について、これまでさまざまな視点から取り上げてきたが、その根底にあるのは「自利利他公私一如」という精神を貫いていることである。明治以降、この精神は一層強調されることになり、初代総理事・広瀬宰平はもとより二代総理事・伊庭貞剛、そして歴代の総理事に継承された。

伊庭によれば、「住友の事業は、住友自身を利するとともに、国家を利し、且社会を利する底の事業でなければならぬ」ということ。そして「それが将来有望であり、世に貢献し得べき事業ならば、住友は社会に代わつてこれが経営に任ずるといふ、稟乎たる大市民的精神を逸してはならない」という趣旨だと述べている。

伊庭は在任中に、公害を断つべき製錬所の四阪島移転、植林計画など注目すべき事業に取り組んでいるが、晩年、住友時代を振り返りながら「別子の山が、緑になったことが一番嬉しい」と孫娘にしみじみと語ったという話が、「住友風土記」(佐々木幹郎著)に記されている。伊庭が、心魂を打ち込み情熱を注ぎ込んだのが「植林」であったことが偲ばれる。事業というより、伊庭のロマンだったような気がする。

伊庭は「別子の山を荒蕪するにまかしておくことは、天地の大道にそむくのである」と明治二十七年、別子銅山に登ったとき、荒れ果てた姿を見た伊庭が「旧(もと)のあをあを(青々)とした姿にして、之(これ)を大自然にかへさねばならない」と語っている。

別子銅山は急激な近代化によって山林の乱伐が行われ、製錬所から排出される亜硫酸ガスが煙害となって森林の木々は枯れ、農作物に被害を与えた。その難題に真正面から取り組み解決へ向けて努力したのが伊庭だった。

「東洋的な考えでは、人間は自然の一部である、だから(人間の手で)自然を損なうと必ずしっぺ返しが来るということになります。それで山に木を植えたわけです。多い時で年間200万本以上の木を植えており、それによって山に豊かな緑がもどっています。」(末岡照啓住友史料館副館長の「広瀬宰平と伊庭貞剛の軌跡」記念講演より)

末岡氏が言う通り、現在の別子銅山は訪れる登山者が感銘するように、青々した自然の山に戻っている。四阪島にしても同様だ。公害で赤茶けた岩肌が剥き出た島に植林を敢行したが緑はなかなか戻らない。それを伊庭は、本州から土まで島に運び込ませ植林事業を断行したといわれる。被害を受けた農民たちとは賠償金の契約を結び、自らに生産制限も課す一方で、莫大な研究費をつぎ込み、亜硫酸ガスの脱硫と中和技術の開発に取り組み、二十世紀半ばに完成した。だが残念ながら、それは伊庭が亡くなった後であった。

今日のCSR(企業の社会的責任)の観点でいうと当然な事といえるが、それを百年前に広瀬や伊庭をはじめ、後に続いた歴代総理事が当たり前のように行なってきた。二十一世紀の今、環境問題は人類共通の課題となっているが、住友の先人達の取り組みは、その精神において時代を先取りしたものと言えるのではないだろうか。

別子銅山が残した産業遺産を訪れる

旧住友銀行新居浜支店
旧住友銀行新居浜支店
武徳殿
武徳殿

愛媛県新居浜市には、別子銅山関連の産業遺産が多く残されている。『新居浜の登録有形文化財』(広瀬歴史記念館発行)によるとイギリスなど欧米先進諸国では、自国の成り立ちや発展をモニュメントとして大切に保存、活用されているが、日本でもようやく二十年近く前から産業遺産の調査や研究が始まった。わが国の産業遺産といっても、その大半がわずか百年余りの間に近代化が進められ、達成されたものが多く、世界史的にみても貴重な存在として注目を集めている。

その中で平成十三年、新居浜市に残されている「旧住友銀行新居浜支店」(現在、住友化学愛媛工場歴史資料館)が同市最初の登録有形文化財として登録された。また同十六年に「武徳殿」、翌十七年に「遠登志橋」。さらに二十一年には「旧別子鉱山鉄道端出場鉄橋」「旧別子鉱山鉄道端出場隧道」「旧山根製錬所煙突」「山根競技場観覧席」「旧泉寿亭特別室棟」の五件が一括登録され、計八件の登録有形文化財が誕生した。いずれも新居浜の将来を見据えた都市計画と関連して出来た貴重な構築物として認定されたものだ。

「旧山根製錬所煙突」は明治二十一年十月、欧米の巡遊先で製鉄・化学工業時代の到来を実感した住友家総理人・広瀬宰平が帰国後、東大で教鞭を執る岩佐巌を「工師」として雇い入れ、山根製錬所を拡張。製鉄・化学事業を目指した。だが、当時の技術水準では海外に太刀打ちできずに結局、製錬所は閉鎖に追い込まれた。しかし、わが国の近代化を、鉱山業から重化学工業へと発展させる最先端技術を応用した工場の遺構として認められたもので、いわばその“記念碑”ともいえる。

山根競技場観覧席
山根競技場観覧席

「旧住友銀行新居浜支店」は新居浜市の臨海工業地帯のさきがけとも言える惣開地区に建てられた。明治二十一年十一月、同地区で惣開製錬所が操業を開始し、二年後、新居浜分店が江戸時代以来の新居浜口屋から惣開に移転し、接待館とともに新築された。同三十二年、別子山中の別子鉱業所が大水害に遭い壊滅したので、惣開の新居浜分店に移転し、これを別子鉱業所とした。旧住友銀行新居浜支店(当時は出張店)は同鉱業所東隣に新設されたもの。施工は別子鉱業所土木課で、小規模ながら本格的な洋風建築で、当時の惣開地区を偲ぶ象徴的な建造物として認定された。平成二年、住友化学愛媛工場歴史資料館として一般公開されるようになり、敷地内には広瀬が由来を記した「惣開の石碑」が建つ。

「旧泉寿亭特別室棟」は、別子銅山開坑二百五十年記念事業の一環として造られ、別子銅山を訪れる関係者の宿泊施設として賑わった。現在、特別室の一部がマイントピア別子に移築、公開されている。「山根競技場観覧席」は、収容人数は6万人というから、東京ドームより大きい。現在も新居浜市の太鼓祭りの時には観覧者で埋め尽くされる。「武徳殿」は青少年の武道教育に貢献した建築物で、今はこれらを含め町と企業の共存共栄のシンボルとして存在している。

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