大阪・新居浜編 その1

第三代総理事 鈴木馬左也の想い

鈴木馬左也
鈴木馬左也

前回までは“石山の高士”、あるいは“心の人、徳の人”などと評され、住友の近代化に大きく貢献した第二代総理事 伊庭貞剛をレポートした。ここからは伊庭の跡を受け、住友の近代化路線をより堅固に推し進め、発展させていった第三代総理事 鈴木馬左也の人となり、事業手腕などについて伝えていく。

鈴木馬左也が総理事の座に就いたのは、まだ四十四歳。先代・伊庭が五十四歳のときだったのに比べ、若く働き盛りだったことがわかる。その上、大正十一年に病没するまでの十九年間、住友のトップの座にありながら、住友の近代組織構築に務める一方、「条理を正し、徳義を重んじ、世の信頼を受ける」「国益を先にし、私利を後にする」など、忠孝の精神を基にした経営方針で事業の拡大を押し進めた傑物といえる。

過去に初代総理事の広瀬宰平、伊庭など偉大なる総理事がいるが、七人の歴代総理事の中で、在任期間が一番長かったのが、鈴木馬左也だった。

住友家が明治維新前後に最大のピンチに陥った困難期に、経営の根幹をなす別子銅山の売却案を阻止、経営を立て直し、今日の礎を築いたのが広瀬なら、公害問題に真正面から立ち向かい、被害住民への対応や植林事業で克服した伊庭というように、激動期には激動期に相応しい人物が登場。山積する難問や課題に取り組み、事業を発展させていったのも歴代のリーダーたちの英知と手腕だった。

鈴木馬左也も総理事在職十九年という歳月なかで、広瀬、伊庭が描いた近代化路線を継承し、住友の発展に大きく貢献したのも、その時の時代に相応しい強いリーダーを呼び出したとも言えるのではないだろうか。
末岡照啓 住友史料館副館長はこう説明する「鈴木という人物は、内務省の役人でしたが、国家と国民の発展を希求する住友の信条に共鳴して入社しました。それゆえ鈴木は、住友の鈴木ではなく、日本の鈴木と自任して国家国民に役立つ事業を興し、それを運用する優秀な大学卒を多く採用しました。今日の住友の基盤は彼の時代に磐石なものになったと言えると思います。」

鈴木が住友大阪本店副支配人として入社したのが、明治二十九年(一八九六)。当時、住友家の十五代家長に就任したばかりの友純(ともいと)と、総理事・伊庭の二人がまだ官界に身を置く鈴木を「住友の将来を託するに足りる人物」として注目し、今流に言えばヘッドハンティングで住友に迎え入れた。

その際に、鈴木は「自分は役人で商売のことは何一つ知らない。徳を先にし利を後にする。徳によって利を得る、それでよろしければお受けする。」と自説を説いたが、これは、まさに住友の事業精神と一致するものであった。

家長・友純も三十歳代。鈴木もほぼ同世代。のちに近代住友へのデザインが、この二人を軸に描かれていくのだが、副支配人としてスタートを切った鈴木には、就任時の決意を実践する大仕事があった。とくに総理事に就任してから「自分は正義公道を踏んで、皆と国家百年の仕事をなさねばならない」という思いを、一層強くもった。

住友は、単なる営利会社ではなく、国家にとっても尊い一機関であり、一要素であると考え、わが国最初の電話・電力用高圧ケーブルの製造、継ぎ目のない鋼管の製造などを実現した。国家百年の事業として、鈴木が興した事業は、現在も住友の事業として生き続けている。

別子の大災害と植林の繋がり

鈴木馬左也が官界(農商務省参事官)を去り、住友の事業に加わったのは、三十六歳の働き盛りの時だった。
住友大阪本店の副支配人を務めた後、三年後の明治三十二年(一八九九)一月、別子鉱業所支配人として別子銅山に赴いた。ところが、それから僅か七ヶ月後の八月、別子が未曾有の暴風雨による大災害に襲われた。
鉱山施設は全て崩壊し、山で働く人たちや家族、子供ら五百十四人の尊い命が奪われた。

馬左也は、そんな惨憺たる災害現場に立ち、総責任者として善後策に陣頭指揮を執り、別子鉱業所の業務を新居浜惣開(そうびらき)製錬所内に移設、新居浜を鉱業所本部として再スタートを切った。

馬左也はその一方で、「今回の風水大災害の原因は、銅製錬による山林の濫伐である」ととらえられていた。そして「鉱山は国土を損する仕事故、国土を護ってゆく仕事をする必要がある。云ひ換ふれば、罪滅ぼしの為に……、それに山林事業が最も適当」と述べたという。

末岡照啓住友史料館副館長はこんな説明をされている。 「馬左也は、災害現場の光景を見て、災害の恐ろしさをまざまざと感じ取った。ましてその要因が、山を削り壊し、樹林の濫伐など自然破壊にあるとしている。ですから伊庭総理事と同じように、鉱山で傷めた山に植林して元の自然豊かな山に戻す。そうした考えに立って決意したんですね」

だがもう一つ、馬左也を植林活動に駆り立てた理由として、末岡氏はこう語った。「今、日本は東日本大震災に見舞われ、さまざまな国難に直面している。日本全国ばかりか、世界中から義援金や支援物資が届けられるなど援助の手が差し伸べられている。実は、別子の大災害の時も、全国から義援金やら毛布などの支援物資が多く届けられているんです。日本人は昔から被災者や困窮者に対する助け合い精神があるんです。ですから馬左也も、こうした援助や支援に応え、お礼に報いるためにも、大造林計画を押し進めた。住友としての罪滅ぼし…という気持も強く働いたようです」

宮崎県椎葉の美林
宮崎県椎葉の美林
大塚小郎(林業所主任)宛て馬左也書状(大正9年)「林業ハ国家の大計ニ干与する」と記している。写真提供 住友史料館
大塚小郎(林業所主任)宛て馬左也書状(大正9年)
「林業ハ国家の大計ニ干与する」と記している。
写真提供 住友史料館

馬左也の大造林計画は、前総理事・伊庭貞剛が掲げた造林計画を継承した形だが、別子銅山にしても、周辺の山々にしても、実際に現場で植林を指揮、自ら実践した話が逸話として残されている。大正六年(一九一七)から、北は北海道から、南は九州・宮崎県の椎葉村まで山林業を起こし、遠く朝鮮にまで植林を行った。いずれも地元官庁の要請による林業振興策を受け入れたものであった。同八年には住友総本店に林業課(林業所の前身)を設置し、「国家百年の事業」として遠大な企画立案にとりくんだ。

当時は、北海道や全国に植林をした山は、いずれも住友が国から払い下げを受けるか借用した山、あるいは土地所有者から購入するか借りた山で、借用した山には植林などで元の自然林に戻して返却することも条件に入っていた。そのため住友では、所有・借用にかかわらず一律に植林事業を行った。

いずれにしても、鈴木馬左也は「住友の林業は百年の計をなさんとするもので、私は山林を住友最後の城郭と致したい」と述べており、また四阪島製錬所の煙害問題に対しても、損害賠償金以上のお金を費やして煙害防止装置で解決したいと宣言した。その意思は、馬左也の死後一七年後(昭和十四年)に中和工場の完成よって煙害の完全除去に成功した。

国家百年の事業

鈴木馬左也 総理事の誕生は明治三十七年(一九〇四)だった。そのときの就任挨拶では「自分は正義公道を踏んで、皆と国家百年の仕事をなす考えである」と決意を述べている。馬左也にとって住友は単なる営利会社ではなく、国家の尊い機関であり一要素であるとした。言い換えれば、住友にも国家にも報いたいと心がけ、理想とする事業のあり方や形を、長期展望によって計画したいという所信表明である。

官史から住友へ転身。多少の戸惑いもあったが、派遣された西洋諸国で多くを学ぶうち「日本を欧米先進国に匹敵する一等国にしたい」という夢を抱き、それは揺るぎない信念へと変わって行った。

住友伸銅場ケーブル工場(電線製造所の前身)(明治後期)写真提供 住友史料館
住友伸銅場ケーブル工場(電線製造所の前身)(明治後期)
写真提供 住友史料館
大塚小郎(林業所主任)宛て馬左也書状(大正9年)住友肥料製造所 新居浜(昭和初期)写真提供 住友史料館
大塚小郎(林業所主任)宛て馬左也書状(大正9年)
住友肥料製造所 新居浜(昭和初期)
写真提供 住友史料館

そして、前号でお伝えした植林事業はもとより、今に繋がる住友の諸事業を次から次へと起こしていった。住友史料館の末岡照啓副館長の著述によると、明治四十四年八月、住友電線製造所(現、住友電工)を設立、わが国最初の電話・電力用高圧ケーブルを製造。翌年には伸銅場(現、住友金属・住友軽金属)で継ぎ目なしの鋼管の製造に着手し、海軍の復水管需要に応えた。また大正二年に肥料製造所を設立し、化学工場の先鞭をつけ、さらに同年、別子鉱山の電源開発を目的に土佐吉野川水力電気(現、住友共同電力)設立、宮崎県の椎葉植林に関係して耳川の水利権を確保。これが今の四国・九州電力発足の遠因になっている。

もう一つ、馬左也は「日本を一等国に…」という信念を貫くなかで、海に向って事業を拡大していく住友の軌跡を、そのままなぞっているようにも見える。水上交通の要所に位置し、かつて長崎出島のオランダ商館を通じて、海外との銅取引を始めたのもそうだったように住友近代化の歩みも海、港湾、運河というように海に向って、あるいは海の埋立地を基地に成長していったともいえる。

かつて大阪は「水の都」と呼ばれた。その中心にあって、商都大阪を象徴する場所といえば、多くの人が堂島川と土佐掘川に囲まれた中之島あたりの風景を上げるだろう。江戸時代、この付近には、大名の蔵屋敷などが多数立ち並び、川面には諸国の物産を満載した船がひしめきあっていた。近代に入ってから、大阪が都市としてさらに発展するためには大阪湾岸のウォーターフロント計画を整えることが、急務として求められた。

しかし、明治維新の激動の大阪経済は衰退し、なかなか実現できなった。だが大正五年(一九一六)、住友家は大阪市の大阪港桟橋拡張工事に資金を拠出すると共に、自らは大阪湾の築港事業拡大と臨海工業地帯の開発を目的に、大阪港の北側に所有する島屋・恩貴島新田を中心に、周辺の地主と正蓮寺川沿地主組合を結成して開発に当たった。馬左也は経営のトップとして指揮を執り、大正八年には経営効率を高めるため、大阪北港株式会社(現、住友商事)を設立して正蓮寺川沿組合から経営地を買い取り、新淀川から安治川河口一帯の開発発展に寄与した。

現在の此花区の恩貴島、島屋、西島、常吉などは、このとき形成された土地であり、現在も住友系列の金属、電線、化学工場群などの多くが進出している。住友の急成長と商都大阪の近代都市形成のプロセスを振り返ったとき、こんなことが言えるようだ。
「鈴木馬左也は住友に入った事で信念を曲げず、“日本の鈴木”として“国家百年の事業”を推進できたのだと思いますね。住友の事業が彼の時代に急成長したことと国の近代化が大きく前進したことは、切り離すことができないと思います」(末岡氏)

鈴木馬左也の人材育成と情熱

「事業は人なり」という言葉は昔も今も、会社組織が追い求める金言の一つと言える。住友グループ各社も、今日までの発展と繁栄の歴史を築き上げてきたのは、時のリーダーの才覚であり、そこに働く人たちの結束と努力の結晶である。

第三代総理事・鈴木馬左也は、住友のトップとして、近代社会をリードするさまざまな起業に関わり、大きく発展させてきた。その手腕はこれまでに紹介してきたが、もう一つ馬左也について忘れてならないのは、優秀な社員の発掘と育成に、並々ならぬ情熱を傾けたことだ。未来の住友の礎とならん人物を採用して育て上げたわけだが、一方で馬左也に惹かれ、後の総理事を継ぐべき優秀な人材も次々に集った。まさに多士済済の人物が登場してきた。

住友史料館・末岡照啓副館長の記述を引くと、明治末から大正期にかけて入社した人材の顔触れを見ると、東京控訴院(現在の高等裁判所)から中田錦吉=後の第四代総理事、逓信省から湯川寛吉=第五代総理事、内務省から小倉正恆=第六代総理事、後の大蔵大臣、農商務省から大平駒槌=別子鉱業所支配人、後の満鉄副総裁など。また生抜きの社員養成にも怠り無く、川田順=本社常務理事、後は歌人、鷲尾勘解治=別子鉱山専務、古田俊之助=第七代総理事、北沢敬二郎=本社理事、後の大丸社長など。他に建築家の長谷部鋭吉・竹越健造ら、教育関係では、江原万里=東大助教授、矢内忠雄=東大総長も、住友に籍を置いた。

この中で、第六代総理事となる小倉や別子鉱山のトップとなった大平と鷲尾は、上司である鈴木馬左也総理事について評しており、馬左也の人物像の一端を伺い知ることができると前出の末岡氏はいう。
「小倉は馬左也の下で仕事していたが、こう言っているんですね。『鈴木さんは、人を信頼するまでは種々細かい事を言われたが、一旦信頼したら徹底的に信頼され、絶対任せっきりで何も言われなかった』と語っています。
また大平も四阪島製錬所に、大量の資金をつぎ込んで設備を更新し、新居浜から当時世界最長二十キロの海底ケーブルを敷こうとしたが、社内から異論が噴出。だがこの時も馬左也はあくまで大平を信頼し、事業を貫徹させて、経営的にも揺らいでいた別子鉱山を蘇らせました。また、鷲尾も採鉱課勤務の頃、直属の上司に別子の労使関係の改善を申し入れ拒否されたが、馬左也はこれを採用したばかりか、鉱夫たちの私塾開設に賛同し、自ら『自彊舎(じきょうじゃ)』と命名したほど若手の意見に耳を傾けた。鷲尾は『士は己を信ずるものの為には命をも致す』と感激し、あらためて馬左也への尽力を誓ったのでしょうね」

また、こんなエピソードも残されている。「一人の天下の人材を取り逃がすための損失は永久であり、測り知る可らざるものがある」とし、馬左也は住友の採用試験は必ず面接し、受験者一人一人と口頭試験をするのが常だった。
そして新入社員はすべて本店の一括採用として別子鉱業所、伸銅所、肥料製造所などの直営店部や、住友銀行、住友製鋼所、住友電線製造所などの連系会社に配属したという。その際、どの店部・連系会社であろうとも待遇は同一にして、住友の人材が適材適所で活躍できるようにした。

寧静寮にて寮員と共に 写真提供 住友史料館
寧静寮にて寮員と共に
写真提供 住友史料館

さらに大阪鰻谷の旧住友本邸跡に「寧静寮」と言う新入社員の独身寮を建て、寮名は勿論、馬左也が三国志の「寧静に非ざれは 以って遠きを致すなし」を引用した。
「将来を託す若い人材の育成の思いを込めていたのですね。その寮には時々泊り込み、訓辞をしたり、若者と国家の事、実業の事など忌憚無く論じ合う。そうした事で若者の心を掴みながら、能力を十分に発揮させていったものと思います」と末岡氏は語る。

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