大阪・新居浜編 その2

中田錦吉による近代的な雇用関係の確立

中田錦吉
中田錦吉

「社員五十五歳。重役六十歳」という住友にとって初めての停年が制定された。第四代総理事・中田錦吉の手で敷かれたのである。就任わずか二年十ヶ月で、トップの座を自ら制定した停年制施行の日に降り、退職した。率先垂範を示し、余人はなかなかできない英断をした人物として、今も語り継がれている。

第二代総理事の伊庭貞剛が「老人の跋扈(ばっこ)」を戒め五十八歳で引退したが、同じように人事の停滞を憂いた中田が、これを成文化したもので、いわば企業を発展させる上での憲法で、その意義は大きなものと言えるだろう。

中田は東京帝国大学を卒業後、司法界に進み東京控訴院判事、横浜地方裁判所部長などを歴任し、東京控訴院部長だった時に、大学の三年先輩にあたる鈴木馬左也(後の第二代総理事)の推挽によって住友へ入社する。中田三十六歳のときだった。もっとも中田は、生まれ故郷の秋田県大館市は小坂鉱山に近く、鉱山業が国益に直結することを理解していたし、何よりも馬左也の説く「公利公益」優先の事業精神に共鳴したことが、入社の最大の動機だった。入社と同時に別子鉱業所の副支配人となり、馬左也を補佐する女房役として内治に専念した。住友の歴代総理事は、初代の広瀬宰平以来、別子勤務を経験しており、入社早々に別子勤務を任ぜられた中田も、将来を嘱望されたエリートといえる。

しかし総理事(第四代)を拝命するまでの二十二年間、別子鉱業所支配人、大阪本店理事、住友銀行(現、三井住友銀行)の実質上トップである常務取締役、鋳鋼所(住友金属の前身)電線(現、住友電工)などの役員を歴任しているが、その中で恐怖の“修羅場”も体験している。

東延斜坑機械場(明治後期)写真提供 住友史料館 別子近代化の象徴的な立坑で、8番坑レベルの富鉱帯を目指した。この付近一帯が暴動の現場となった。
東延斜坑機械場(明治後期)
写真提供 住友史料館
別子近代化の象徴的な立坑で、8番坑レベルの富鉱帯を目指した。
この付近一帯が暴動の現場となった。

明治三十九年九月、中田は「飯場取締規則」を制定した。別子鉱山には江戸時代以来の飯場が十七あり、各飯場には飯場頭がいて配下には兄弟分・子分約百人が所属していた。だが、鉱夫たちは住友直接の雇い人でないため、採鉱課から支給される賃金・安米は飯場頭に支払われ、配下の鉱夫は不当に搾取されることが多かった。そこで中田は「飯場取締規則」を置いた。一、飯場の定数を二十に。二、賃金は鉱夫個々人に直接支払う。不良な飯場頭を罷免する。

これに対し、改革に不満を持つ飯場頭らはダイナマイトで坑内や諸施設を爆破するという流言を広め、紛争を企てた。これを知った中田は、鈴木総理事への書状で「此報告を信ずるは、却って彼らの手に乗りたるものならん」と述べ、断固たる処置で臨むとした。ところが飯場頭と扇動された鉱夫ら三百人余が暴徒化、事務所や社宅などに放火する大暴動に発展した。中田は、鈴木総理事に相談、愛媛県知事を通じて軍隊の出動を要請したが、これに恐れをなした暴徒は、軍隊の到着を待たずに自主解散、騒ぎは収まった。この紛争を機に近代的な雇用関係が確立された。

中田はもう一つ、大きな紛争事件に直面している。住友史料館副館長の末岡照啓氏によると暴動騒ぎの一年後の明治四十一年八月、四阪島の煙害被災地である東予(今治・壬生川など)を別子支配人らと視察した際、公害の補償問題などで殺気立つ農民ら一千人に宿を包囲される中、命がけで逃れた経験があった。「戊辰戦争で孤立無援のなか、官軍として戦った秋田藩士の血の流れを汲む人ですから、苦難に自ら立ち向かう住友精神を意中に秘め、騒動の渦中に飛び込んだのでしょう。武勇伝みたいな話ですが、農民達とその後も話し合い、補償問題を完全解決する道筋をつけました。」

湯川寛吉による住友の新たな一歩

湯川寛吉
湯川寛吉

趣味はゴルフで、現存する茨木カンツリー倶楽部を設立した関西ゴルフ界の草分け的な存在。そして江戸城無血開城させた勝海舟とは美人芸姑を張り合う仲など、数々のエピソードを持ち合わせるのが第五代総理事・湯川寛吉である。

「とにかく上品で洗練された社交上手の紳士。ドイツ語に堪能で休日はゴルフを楽しむという、当時としてはハイカラな趣味の持ち主で、温和でとっつきやすいタイプの人だったようですね」と住友の歴史研究を続けられている末岡照啓住友史料館副館長は説明する。

湯川は前任の総理事中田錦吉が自ら敷いた停年制に従って退社後、総理事となった。明治元年、紀州新宮藩(現和歌山県新宮市)の藩医の長男として生まれたが、医者になることを嫌い東京帝国大学法学部を卒業した後、逓信省入り。東京通信管理局長まで務め上げたが明治三十八年、三十八歳の時に住友入りした。

中田同様、大学の先輩である時の総理事(第三代)鈴木馬左也の強い推挽によって入社し鈴木、中田に次ぐナンバースリーとして、鈴木総理事を支え続けた。そして逓信省時代の外遊経験を含む外務省参事官などを歴任した豊富な経験が入社後も先見性、斬新なアイデアを創出するなど活躍した。

住友伸銅鋼管のシームレスパイプ(昭和元年) 写真提供 住友史料館
住友伸銅鋼管のシームレスパイプ(昭和元年)
写真提供 住友史料館
住友社則制定の通知(昭和3年6月14日) 写真提供 住友史料館 この社則によって、「営業ノ要旨」から別子鉱山の条文が削除された。
住友社則制定の通知(昭和3年6月14日)
写真提供 住友史料館
この社則によって、「営業ノ要旨」から別子鉱山の条文が削除された。

明治四十三年五月、湯川は住友伸銅場支配人(住友金属、住友電工、住友軽金属の前身)を兼務することになり着任後、真っ先に取り組んだのが製管事業だった。当時の日本では罐管(かまくだ)や復水管などの高級管類の製作は出来ず、海外からの輸入に頼っていた。それを国内で生産出来ないものかと思案した湯川は、海軍工廠や英国から技術者を招き二年後には、わが国の民間企業としては初の“継ぎ目なし鋼管”「シームレスパイプ」の製造に成功。それを契機に住友は通信ケーブルとの関係から日本電気へ資本参加。住友鋳鋼所(住友金属の前身)では、海軍、鉄道用の外輪・輪軸・歯車・台車などの国産製鋼品を生み出した。その結果、昭和の高度経済成長期の一翼を担う新幹線など製造基幹の礎となる大きな役割りを果たした。

湯川のこうした功績の陰には、彼が打ち出した住友の歴史を変革させるような大胆な提起があったことを避けるわけにはいかない。
「広瀬宰平(初代総理人)が起草した住友家法(“営業ノ要旨”第三条)によって、別子銅山の事業は『住友家累代の財本』として守られ続けてきたが、その第二条には『時勢の変遷、理財の得失を計り弛張興廃する…』とあります。湯川は二十世紀前半の内外情勢を見極め、家法の規定に従い、『あらたな事業を推進するためには、進取の精神によって改良進歩を図る必要がある』と重役会議で所信を述べ、支持を得るんですね。そこで、別子鉱業所を直営事業から切り離して独立会社とし、本社の社則制定に当たり“営業ノ要旨”から別子の条文を削除した。住友は産銅資本からの飛躍をはかり三井、三菱などと肩を並べる総合企業へと舵取りをしたのです。これが今日の繁栄の礎を築いたと言えるでしょう。その意味では功労者と言えると思います」と末岡照啓氏は説明する。

湯川は、そのときの思いを主管者会議(経営幹部会議)で以下のように述べている。
「住友家ノ新事業ニ対スル態度ハ、慎重熟慮ヲソノ標語トシマスガ、(中略)在来ノ事業ニ対スル改良進歩ヲハカルト共ニ、堅実有利ナル新事業ニツキ、常ニ進言ヲ怠ラレナイ様、切ニ希望シマス」。しかし湯川は「住友ハ営利会社デアルガ、同時ニ国家社会ノタメニツクスコトガ住友ノ伝統デアル」と訓示することを忘れなかった。

住友事業精神を受け継ぐ小倉正恆

小倉正恆
小倉正恆

石川県金沢市の城下「大衆免(だいじゅめ)」で官吏の長男として生まれた小倉正恆は、幼少の頃から祖父による漢書の勉学に勤しんだ。そのことが後年、住友第六代総理事、さらには近衛内閣の国務大臣・大蔵大臣へと上りつめた小倉の人生に大きく役立つことになった。

また金沢養成小学校の同級生には、後に明治後期から昭和初期にかけ小説家として活躍した泉鏡花、徳田秋聲がいた。元々文学者になることを夢見ていた小倉は、この二人の影響もあって文学に熱中し、文学の世界にのめり込んでいった。しかし明治二十七年、東京帝国大学(現東京大学)へ進んだ小倉は、文学の世界とかけ離れた法科の道に進むことになるが、小倉が常に愛読し続けたのが中国前漢の歴史家・司馬遷の「史記」である。その遷が残した名言・格言のなかの一文が気に入っている。「司馬遷が言っておるのですが、霊山大川、偉い人に会うということが人間を作る」―。

小倉正恆と住友の重役(明治44年) 住友史料館提供 後列中央が小倉正恆、その右中田錦吉、前列右住友友純、その左鈴木馬左也
小倉正恆と住友の重役(明治44年)
住友史料館提供
後列中央が小倉正恆、その右中田錦吉、前列右住友友純、その左鈴木馬左也
大臣就任式
大臣就任式

明治三十二年五月、小倉は二十四歳の時、内務省から住友とへ転身するのだが、この「霊山大川…」字句が、これから企業家として歩む小倉を勇気づけると共に、各界の名士と言われる人たちの元を精力的に訪れては、見識を高めていった。そして昭和五年八月、小倉は湯川寛吉の後を継いで第六代総理事に就任すると、歴代の総理事が堅持してきた「住友の事業精神」を継承し、「住友の利益を収めるばかりではなく、国家社会に奉仕する」と宣言した。初代文殊院政友の教えが、時代を超えても脈々と行き続けるDNAとなっている事を示した。

また人材の育成面でも、新入社員を前にこう述べている。「みんなはこれから財界に入るのだが、財界というところは、ただ金を儲けるだけではいかん。先ず人間として立派でなくちゃ駄目だ。人間を磨け」。この演説を聞き「高い理想に何とも言えない感動を覚えた」と話す若者がいた。後の住友金属工業社長で関西経済連合会会長の日向方斎氏と、住友電気工業社長で国鉄再建監理委員会委員長を務めた亀井正夫氏である。

住友史料館副舘長の末岡照啓氏は「二人は、よほど感動されたのでしょう。その時受けた感動が、後の関西空港の建設や膨大な借金(三十四兆円)を抱えていた国鉄の分割民営化など、国家的なプロジェクト推進に役立ったのだと思います」と語った。
小倉総理事の時代は、住友傘下企業の再編に積極的に取り組んだ頃でもあった。昭和十二年三月、住友合資会社を「株式会社住友本社」に改組。連係会社を金属、電線、化学、機械、銀行、生命など十三社に拡大させ、社員も八万人に達する大事業体にした。

しかし一方で、小倉は貴族院や内閣審議会委員を務めながら国家経済の政策や道徳教育について提言をしてきた。このことが「国家に必要な人物」と見なされ、時の近衛内閣に招請され、国務大臣、大蔵大臣を第二次、三次にわたって勤め上げた。その後も、日中文化交流に尽力し、中国関係の蔵書を愛知大に寄贈、現アジア・アフリカ図書館の設立など幅広い活動を続けた。
住友を去る(昭和十六年)にあたり小倉は「身は住友を去るが、心は住友を去らない」と、十一年に及ぶ総理事の仕事を振り返り、万感な思いを語っている。

最後の総理事 古田俊之助

近代の住友には、事業の基礎を固めて発展させてきた七人の総理事がいる。初代・広瀬宰平、第二代・伊庭貞剛など、いずれも住友の事業を国家の発展のために役立てようと道義に基づく事業経営に邁進してきたトップリーダーたちだ。
第七代総理事・古田俊之助もその一人だった。日本が第二次世界大戦に敗れ、国土が焦土と化す厳しい時期に、住友家長・友成(第十六代)と住友傘下企業の三十五社、従業員約二十万人を守ろうと奔走したのが“最後の総理事”となった古田俊之助である。

昭和二十一年一月、占領軍GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)によって、日本の財閥本社が次々と解体令を受けたように、住友にも解体令が下り、住友本社を解散せざるを得なかった。戦時中も国策として、金融機関の再編を余儀なくされ、住友と大阪海上火災が合併。また住友鉱業、金属、電工、化学、アルミ、通信(NEC)、板硝子などの企業が「軍需会社」に指定され、権限を本社から「住友戦時総力会議」に移行させ、政府の統制に対処してきた。

住友本社の解散式(昭和21年 本社屋上にて)前から3列目中央が古田俊之助 住友史料館提供
住友本社の解散式(昭和21年 本社屋上にて)
前から3列目中央が古田俊之助
住友史料館提供

だが、こうした一連の国策に沿った事業展開も、敗戦という国難に直面し三百年余の歴史と伝統を誇る住友が解散、幕を閉じることになった。問題は、解散は致し方ないにしても、生涯を住友に捧げてきた多くの従業員をどう扱うか。戦時中に朝鮮・満州方面などの関係会社に派遣されていた人達が、続々と内地に帰還していた。古田はGHQと交渉した。「住友の全責任は私にあって、他の何人(なにびと)にもない」と説明。公私の別を訴え、住友の事業と従業員を守る見通しがつくと、率先して住友本社を解散した。

そして、古田が住友人に対して悩んだ末に下した決断は(一)拡張しきった各方面の事業を収拾、人材の離散を防ぐ。各人に出来るだけ仕事を与える。そのためには新しい事業企画を立てる(二)海外引揚者とその家族の援護を十分にする(三)住友の事業を滅ぼさずに転換し、将来、民族と国家の繁栄に繋がるように運営する―など。これが古田の住友人に対する報謝の念であり、住友の人材を温存し、いつの日か再び蘇る日の核を残して置きたいという密かな期待が込められたものだった。

それは古田の就任の際、連係各社に向けた「事業の盛衰は人にあり」とする人材育成の大切さを説いたところにも現れている。「住友は営利だけを目的とせず、正しい事業を進めていく、他に類のない伝統がある住友の各事業は兄弟分であることを、あくまで失わないように精神的に提携してやって頂きたい」と語った。住友は解散し資本関係が無くなっても、住友の事業精神を遺伝子(DNA)として共有して守り伝えてほしい、と述べたのである。

古田俊之助
古田俊之助

明治十九年、京都府下で生まれ、同四十三年、東京帝国大を卒業、住友に入社。職工として鋳造技術を取得するなど、汗と埃まみれのエンジニア出身だが、住友伸銅場支配人から住友伸銅鋼管、住友金属、満洲住友金属など金属工業全般の指揮を執り昭和十六年四月、小倉総理事の後を継いで七代目総理事へ。幅広い統率力を持ち、部下から「おやじ」と慕われた。
山本五十六(連合艦隊司令長官)とは事業を通じて交友、松下幸之助には「経営者の根本を学び “松下の理念” 」になっていると言われた。六十八歳没。

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