伊庭貞剛 その1

文・末岡照啓

田中正造の演説

2001年を迎え、21世紀は地球環境の世紀といわれる。わが国で、環境問題が公害として認識されたのは、今からおよそ100年前(明治30年前後)のことで、栃木県の足尾鉱毒問題と愛媛県の別子煙害問題が原点とされている。
明治34(1901)年3月23日、足尾鉱毒事件を追及する田中正造※1は第15回帝国議会において、別子銅山では経営者の判断によって製錬所そのものが、新居浜から瀬戸内海の無人島「四阪島(しさかじま)」に移されたことを高く評価し、次のように賞賛している。
伊予ノ国ノ別子銅山ハ、第一鉱業主ハ住友デアル、ソレ故社会ノ事理(ことわり)人情ヲ知ッテ居ル者デ、己ガ金ヲ儲ケサヘスレバ宜イモノダト云フヤフナ、サフ云フ間違ノ考ヲ持タナイ
この四阪島への製錬所移転を断行し、荒れ果てた別子の山々に植林した経営者が、住友二代総理事伊庭貞剛(いばていごう)、後の「幽翁(ゆうおう)」である。

裁判官から住友へ

弘化4(1847)年1月5日、伊庭貞剛は、近江国蒲生(がもう)郡西宿(にしじゅく)村(現在の滋賀県近江八幡市西宿)の地代官、貞隆の嫡男として生まれた。幼名は耕之助、母田鶴(たづ)は住友初代総理人広瀬宰平の実姉であった。幕末期、青年貞剛は近江八幡の西川吉輔に尊王思想を学び、師西川の推挙で新政府に出仕、以後司法畑を歩んでいた。
明治10(1877)年9月、伊庭は函館裁判所から大阪上等裁判所の判事にまで昇進したが、西南の役後、明治維新の自由闊達な気風は消え失せていく。天下・国家を考えてきた伊庭にとって、信念を曲げ、媚びへつらうような官界はもはや長居すべきところではなかった。明治11(1878)年12月、故郷へ帰って村長にでもなろうと叔父広瀬宰平を住友家に訪ねたところ、「御尊父(宰平)ノ慫慂(しょうよう)ニヨリ、住友氏ノ為ニ勉強従事スルコトニ決意、辞表ヲ呈し候」ということで、明治12(1879)年2月4日、33歳にして住友に入社する。月給は40円、裁判官時代の半分以下であった。妻の梅子は思わず嘆息したというが、もとより伊庭は地位や蓄財を求めて住友入りしたのではない。「公利公益」を旨とする住友の事業精神に惚れ込んだのである。

総理事時代の伊庭貞剛
総理事時代の伊庭貞剛。
大阪で撮影されたもの。
写真提供 住友史料館

※1 田中正造 たなか・しょうぞう
1841年から1913年。明治時代の政治家。現在の栃木県佐野市に生まれる。1879年に栃木新聞を創刊。自由民権運動に参加。80年県議、86年県会議長となる。90年第1回衆議院選挙で当選、以来6期を務める。91年から半生をかけて足尾鉱山事件に取り組む。著書に『田中正造全集』(全20巻、岩波書店)がある。

別子山への植林本数の変化

伊庭貞剛は荒れ果てた別子の山々をもとの自然の状態に戻すため、それまで毎年6万本に満たなかった植林本数を、一気に毎年100万本台へと増やしていった。また彼は、専門技術者を招いて森林計画を作成、実施した。現在の別子における豊かな自然は、この計画が基盤となっている。

1877年(明治10)年 27,560
1878年(明治11)年 238,801
1879年(明治12)年 220,211
1880年(明治13)年 52,195
1881年(明治14)年 123,396
1882年(明治15)年 20,888
1883年(明治16)年 64,528
1884年(明治17)年 35,113
1885年(明治18)年 23,610
1886年(明治19)年 80,166
1887年(明治20)年 77,064
1888年(明治21)年 82,350
1889年(明治22)年 41,500
1890年(明治23)年 41,800
1891年(明治24)年 26,800
1892年(明治25)年 61,620
1893年(明治26)年 32,520
1894
伊庭貞剛、別子に支配人として赴任
1894年(明治27)年 117,150
1895年(明治28)年 275,000
1896年(明治29)年 406,200
1897年(明治30)年 1,217,001
1898年(明治31)年 1,353,605
1899
伊庭貞剛、
住友本店に帰任
1899年(明治32)年 1,450,930
1900年(明治33)年 不明
1901年(明治34)年 2,270,000
1902年(明治35)年 1,941,267
1903年(明治36)年 2,454,330
1904年(明治37)年 2,194,104
1905年(明治38)年 2,439,945
1906年(明治39)年 1,969,469
1907年(明治40)年 2,051,195
1908年(明治41)年 2,484,500
1909年(明治42)年 1,784,292
1910年(明治43)年 1,521,428
1911年(明治44)年 1,552,162
1912年(大正)年 1,640,754
1913年(大正2)年 1,233,140
1914年(大正3)年 1,181,516
1915年(大正4)年 1,286,566
1916年(大正5)年 918,482
1917年(大正6)年 976,026
1918年(大正7)年 922,186
1919年(大正8)年 620,107
1920年(大正9)年 739,803

別子鉱山への単身赴任

明治12(1879)年5月1日、伊庭は大阪本店支配人に就任し、宰平の片腕として住友家の事業や、財界活動に活躍していたが、明治二26(1893)年5月頃から新居浜では、製錬所の亜硫酸ガスが農作物を枯らす煙害が発生し、同年九月には農民暴動となる。広瀬宰平の進退問題とも絡んで、別子の騒動は暗雲を呈していた。
明治27(1894)年7月4日、単身別子支配人として赴任した伊庭は、別子の内憂外患の原因が、重役と職員、職員と稼ぎ人同士、はては会社と農民の意思の疎通を欠いた人心の荒廃にあると看破した。そのとき伊庭は、ただ銅山へ登ったり降りたりして、親しく稼ぎ人に声をかけるのみであったが、これも殺伐とした人間関係を和らげるには、経営トップ自らが現場へ出向いて、対話する必要性を感じていたからである。当時の一般常識から見れば、愚かに見えたかもしれないが、伊庭は親友品川弥二郎宛の書状で、「小生は馬鹿な仕事がすきなり」とあえて言い放っている。馬鹿に見える仕事こそ、時と場合によっては重要であると達観していたのである。この伊庭の態度に感化されて、さしもの別子騒動も、次第に静まりを見せていった。

四阪島への製錬所移転

また伊庭は、荒廃した別子の山々を見て、「別子全山を旧(もと)のあをあをとした姿にして、之を大自然にかへさねばならない」と、山林保護の方針を立てた。まず、亜硫酸ガス発生の原因となる別子山中での焼鉱や製錬を止め、早急に薪炭を石炭燃料に代替しなければならない。しかしそうすれば、新居浜の惣開(そうびらき)製錬所を拡張する必要が生じ、平野部での被害が深刻化する。かといって、このまま何もしなければ、別子の山も新居浜も煙害によって人心ともども荒廃してしまう。補償や慰撫といった手段では根本的解決にはならない。まして大自然はそのようなことでは復旧しないと判断した伊庭は、山でも平野でもない、その影響の最も少ないところに製錬所を移す決断を下すことになる。

四阪工場
現在も四阪工場は稼働している。
写真提供 普後 均
四阪島全景
1906(明治39)年の四阪島全景。
この前年から四阪島製錬所は操業を開始した。
写真提供 住友史料館

明治28(1895)年11月、伊庭は新居浜沖約20キロにある四阪島をその候補地とし、秘密裏に自分名義で買い取った。12月1日、伊庭は、政府に四阪島製錬所の建設願を提出したが、これを機に隣接町村の製錬所誘致運動が起こった。また翌年3月には、住友を引退していた広瀬宰平が、1煙害以外の損害にも目を向けるべきこと、2社会資本の整った新居浜から無人島に移転することは、費用の面、地域社会との信義上問題があること、3莫大な移転費用は、むしろ損害賠償に充てるべきこと、4移転は損害を拡大する可能性がある旨を忠告している。

別子山の環境対策

旧製錬吹処之図1881
旧製錬吹処之図。1881(明治14)年の撮影。
伊庭貞剛はこの山に自然を取り戻そうとした。
写真提供 住友史料館
四阪島全景
左の写真と同じ場所の現在の様子。
豊かな自然がよみがえった。
写真提供 住友史料館

広瀬の忠告は、当時の経営者として常識的であった。水の出ない無人島に、工場や港湾設備を建設し、社宅・学校・病院など社会資本を整備することは、はたから見ると「馬鹿な仕事」かもしれなかった。しかし、伊庭には将来別子の鉱石がなくなっても、鉱石を買って製錬する買鉱製錬には、同島が便利という判断もあった。伊庭はひたすら将来を信じて他の言に惑わされず、四阪島への移転を断行する一方、専門技師を雇い山林計画を策定、植林事業を敢行する。

明治27(1894)年、伊庭の別子支配人就任まで毎年平均6万本に満たなかった植林本数は、毎年100万本を超えるようになった。明治38(1905)年11月には、鉱毒水を国領川水系に流さないよう、海抜750メートルの第三通洞から新居浜の海岸まで、全長16キロに及ぶ煉瓦製の坑水路を築造し、鉱毒を中和処理する収銅所を設けている。明治30(1897)年2月8日、着工された四阪島製錬所は、ようやく38年1月から操業を開始した。当初の起業費は50万円余であったが、着工時には91万円余に、完成時には173万円余に膨張していた。この金額は別子鉱山純利益の2年分に相当していた。伊庭の別子赴任前後から明治38年まで投資された起業資金は462万円余に達したが、彼は四阪島への移転・植林・坑水路などの環境対策にその約半分を使い切ったのである。

ビジョンをもった経営

明治38(1905)年1月、四阪島製錬所が操業を開始すると、煙害は予想に反して周辺部に拡大し、大きな社会問題となった。広瀬の不安は、思わぬかたちで的中したのである。田中正造もいうように、「予期せぬ被害」というのが20世紀初頭の公害問題であった。伊庭は製錬所の落成に際し、「これぞ吾精神を凝(ぎょう)して 勇断せし最後の事業也」と述べて、20世紀の課題に果敢に挑戦したのである。しかし、四阪島製錬所の煙害問題解決は、昭和14(1939)年、亜硫酸ガスの中和脱硫に成功するまで、実に三四年の歳月を要することになる。
伊庭は生前、煙害解決の快挙を見届けられなかった。しかし彼は、事業というものには、絶えず現実問題がつきまとうが、そうした現実に拘泥せず、理想という大きなビジョンを忘れてはならないと語っている。
ちょうど100年前、田中正造は「住友ハ、山ヲ以テ之ヲ子々孫々ニ伝ヘテ、之ヲ宝ニシテ置クト云フノデアル」と演説した。晩年の伊庭は、よみがえった緑を見て、別子の植林こそが「わしの、ほんたうの事業」と述べている。今世紀の環境問題を先取りした重い言葉である。

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