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住友の歴史と事業精神住友の歴史と事業精神

住友人物列伝:総理事と呼ばれた人たち

「総理」が生まれたとき 3

文・末岡照啓

老分から総理代人へ

明治5(1872)年2月、広瀬は老分末家となり、翌月別子銅山支配人の後見役を命じられると、銅山での月給・等級制と能力主義人事の採用を宣言した。大坂本店よりもいち早い実施であった。月給・等級制の採用では「今日文明開化の域に至り、無能頑愚の者、上等に座し、その権を振るい候謂れ、これ無き候事」と言い放ち、真っ向勝負の重役批判を行っている。これでよくクビが飛ばなかったものだが、住友家には店員の意見を採用する伝統があった。明治維新に際しても店員一同に、危急を救う方策があれば新古老若に関わりなく、遠慮なく上申するよう申し渡している。このような住友の風土が、広瀬宰平を生んだともいえよう。またおそらく、本店の重役たちは広瀬のうそ偽りのない訴えに圧倒され、腹に据えかねることがあっても、広瀬の、政府やその他要路への外交手腕は認めざるをえなかったのであろう。

鰻谷本邸1879(明治12)年、広瀬宰平自ら撮影した
竣工当時の鰻谷本邸。
写真提供 住友史料館

明治6(1873)年10月、広瀬は十二代当主・友親から、別子銅山近代化のための外国人雇い入れ事務を委任された。住友家の当主による権限委譲の最初であった。
これを機に、広瀬は大坂での活動を活発化し、海運に便利な安治川河口の富島(現在の西区川口四丁目)に出店を設け、大坂・鰻谷(現在の中央区島之内一丁目)の本家から店方を移した。
明治8(1875)年6月、広瀬は老分から日勤老分になり、住友家の全事業に参画できるようになった。同年12月、最長老の清水惣右衛門が引退すると、本店支配方のメンバーは日勤老分・広瀬宰平、支配人・岐村清兵衛、同・村田謙一郎の三人になった。広瀬時代の到来である。ときに広瀬四七歳。早速、広瀬は長年の懸案であった家と店との完全分離を図り、大坂・鰻谷を本家、富島出店を本店と呼ぶことにした。

明治9(1876)年1月には、住友家の当主を家長と呼ぶように決め、同年八月家長・友親の名で「本家第一之規則」全十カ条が出された。
その第二条では「予州別子山之鉱業ハ重大ニテ、万世不朽我所有スル不動産ニテ、他ニ比スナク、後来ノ利害得失ヲ謀リ、勉励指揮スル事」と規定した。 住友家では、家長が万世不朽なのではなく、別子銅山すなわち事業こそを万世不朽としたのである。
それでは、家長はどうかというと、第十条において「嫡子ノ者、不学ニテ家政ヲ体認セズ、放逸ニ過ル時ハ、嫡子タルノ権ヲ奪ヒ、次男・次女ニテモ相続スル事」と定めている。嫡子といえども、ふさわしくない者からは、その権を奪ってしまうというのである。まさに住友家は、家長自ら事業の永遠性を宣言したのであった。おそらくこれは明治維新に際し、本店重役に別子銅山を売却されようとした苦い経験から、広瀬が家長に進言して挿入させたものであろう。
ちなみに、この「本家第一之規則」が明治15(1882)年の住友家法における家憲の母体となった。

江戸時代の住友本邸江戸時代の住友本店の図
『日本唐土二千年袖鑑』より

明治10(1877)年2月14日、広瀬宰平は家長・友親から総理代人を委任された。その委任状には「拙者儀多病ニに付、其許殿ヲを以、総理代人ト定メ、左ノ権限ノ事ヲ代理為致候事」とし、具体的には、「我身上ニ係ル諸般及ヒ商法上ヨリ一切之事務ヲ惣轄シテ、数多雇人ヲ統御スル事」であった。ここに、住友家の総理代人・広瀬宰平が誕生したのである。なお明治18(1885)年、我が国で最初の内閣総理大臣が誕生したが、総理という名称の使用はこれより八年も早かったことになる。
明治15年、住友家法が制定され総理代人は総理人と改称された。総理人は「定款ニ拠リ我営業上一切ノ事務ヲ総理監督ス」と規定され、家長・友親から広瀬宰平に委任された私的な役割ではなく、公式な職務として明文化されたわけである。明治29(1896)年には家法が大幅に改正され、総理人は総理事と改められた。これを「理事長」としなかったところに、住友の「総理」という言葉への強い思い入れが感じられる。
かくして、理事から選出された総理事が指揮を執る時代となったのである。

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