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住友人物列伝:総理事と呼ばれた人たち

広瀬宰平 その一 2

文・末岡照啓

新政府への出仕

新居浜市街別子銅山の頂上付近より、
現在の新居浜市街を望む。
撮影 普後 均

明治元(1868)年9月、広瀬は別子銅山の出願を通じて新政府にその力量が認められ、鉱山司の役人に任命された。誕生後間もない明治政府は、その人の経歴や身分にかかわらず、才能ある人物を抜擢したのである。
広瀬は、生野鉱山・伊豆金山の視察を命ぜられた。生野鉱山ではフランス人の御雇外国人・コワニエと出会い、黒色火薬を用いた近代的採鉱法を教わる。そこで広瀬は、別子銅山の再生には西洋技術の導入以外に途はないと確信するのである。
別子銅山への事業結集を図るためには、不採算となっている事業を切り捨てる必要があった。広瀬は、同年12月、伊豆金山視察のついでに東京に立ち寄り、中橋(現在の中央区八重洲一丁目付近)両替店と浅草札差店の金融店部を閉鎖した。ただし、入店4年目の小池鶴三など、将来に見込みありと思われる人材はリストラせず、大阪本店へ連れ帰っている。

道中日記西洋ノートに鉛筆書きされた広瀬の道中日記。
明治2(1896)年2月16日、「十六日、天明則、船在讃予之間、
我銅山遥望、喜気可知(十六日、天明けすなわち、
船讃予の間に在り、我銅山をはるかに望む、喜気を知るべし)」
という記事で終わっている。
広瀬は船上、別子近代化の決意を新たにしたのであろうか。

広瀬は、明治元年11月1日に大阪の鉱山司を出発してから道中日記を記しているが、当時としては珍しい、西洋ノートに鉛筆書きであった。
これによると、11月12日、伊豆韮山で県令・江川太郎左右衛門英武のもてなしを受け、12月14日には東京で、古銅吹所を鉱山司出張所として接収している。その帰途12月29日、近江八幡西宿(現滋賀県近江八幡市西宿町)に姉の嫁ぎ先である伊庭家を訪れ、姉夫婦や、京都御所禁衛隊の任を解かれて帰郷していた甥の伊庭貞剛と新年を過ごした。
翌2(1869)年1月7日には「一昨日京都小騒動、三与横井平四郎殿暗殺之義、固場所厳重也」と、政府の重鎮・横井小楠の暗殺事件に遭遇し、騒然とした京都の状況を伝えている。

広瀬はこの旅で、わが国の置かれている状況をつぶさに見聞し、別子銅山を事業の中心に据える重要さを改めて確信した。その後、三井・三菱・古河・藤田・久原(日立)が、官営鉱山の払い下げによって重工業を発展させた経緯を考えると、広瀬の経営路線には先見性があった。

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