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住友人物列伝:総理事と呼ばれた人たち

広瀬宰平 その一 3

文・末岡照啓

相変わりておめでとう

明治2(1896)年4月、広瀬は別子の近代化に専念するため、いとも簡単に役人を辞している。役人としての地位や名誉より、実業の世界で国家に貢献することを望んだのである。江戸時代の住友の事業は、幕府の長崎御用銅一手買い上げという体制のもと、経営体質はどう見ても役所任せであった。明治政府も、当初は鉱山司で銅を一手に買い上げていたが、明治2年2月、銅の自由売買を通知、また鉱山労働者用飯米の払い下げや代金延納の制度も撤廃すると通告してきた。これにより住友家は、銅を自力で外国に販売し、6千石余にもおよぶ飯米も自前で確保しなければならなくなったのである。広瀬は、東京の大蔵省へ、飯米の継続支給や代金の返済猶予を必死に嘆願したが、その一方で、大阪本店の時代をわきまえない、ぬるま湯的な体質はいっこうに変わっていなかった。
明治3(1870)年正月五日、東京の帰りに新年宴会に出席した広瀬は、やり場のない憤りから、満座の人々に「相変わりて御芽出度たく候」とあいさつした。守旧派の重役や末家はこれを耳にすると、日本古来のあいさつは「相変わらず」であるとして、広瀬の言は不吉であると責め立てた。すると広瀬は、「今日に於て最も切に願ふへきは、旧を捨て、新を取り、禍を転して福と為すに在り、宰平か今日の宴を祝するに、故らに世の慣例に反して、相変わりてとの語を以てせしは、赤心以て御当家前途の万歳を祝し、御家運倍旧の隆盛を祈れはなり」と自説を滔々と述べた。広瀬は、この文明開化の時勢に、旧習にこり固まったままでは滅亡するぞ、いまこそ変革しなければならないと言いたかったのである。
それからの広瀬の行動は素早かった。明治3年閏10月、神戸に製銅販売の仮出店を設け、翌年2月には正式に神戸出店とし、外国商館への売り込みを図った。飯米は、下関などの国内市場から調達する一方、新居浜周辺の田畑を買収して自給できるよう努めた。

ラロックの雇い入れ

「盛山棒」別子銅山記念館(愛媛県新居浜市)に展示されている
「盛山棒」(下)鉱脈に火薬を詰める孔をあけるための道具で
「広瀬が「山の盛大繁栄」を願って命名した。

明治2年2月、広瀬は生野で学んだ採鉱法を改良、加えて火薬装填のための穿孔用鉄棒、「盛山棒」を案出した。これは山の盛大繁栄を願う広瀬が、自ら命名したものである。「盛山棒」は、その後関西地方の鉱山で広く用いられたという。
また、同5(1872)年にはコワニエの視察を請い、同7(1874)年1月には周囲の反対を押し切って、フランス人技師・ラロックを雇い入れた。広瀬は、新居浜・金子村(現愛愛媛県新居浜市久保田)の自邸にラロックを宿泊させたが、周囲の村人はもの珍しげに取り囲み、なかには石を投げ入れる不埒者もいたという。そんな時代である。ラロックの採用を大阪本店が反対したとしても、無理からぬところがあった。

ラロックの月給は広瀬の六倍にあたる600円という高給であったが、彼は、それに見合う「別子鉱山目論見書」という近代化プランを完成させる。ラロックは、別子を調査するうちにこの山の魅力に引かれ、契約終了後も引き続き雇ってほしいと懇願したが、広瀬はこれをきっぱりと拒絶した。官営鉱山の経営失敗を目の当たりにしてきた広瀬は、外国人技師に頼ることなく、自らの力で近代化を達成しようとしたのである。
明治9(1876)年2月、広瀬は技師養成の観点から、通訳として外務省から雇った塩野門之助と店員の増田芳蔵を、フランスへ留学させるとともに、ラロックのプランを参考に起業方針を定め、別子銅山の本格的な近代化に取り組んだ。
ただし、これらの事業をやり遂げるには、確固とした信念をもつ人材を集める必要があった。

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