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住友の歴史と事業精神住友の歴史と事業精神

住友人物列伝:総理事と呼ばれた人たち

広瀬宰平 その二 2

文・末岡照啓

別子鉱山の近代化へ

広瀬のとった住友の事業方針は、自己資金で着実に事業を進めるというものであった。そのため住友は、三井、三菱や古河、藤田のように他からの融資を得て鉱山を買収することはなく、資金の余力はすべて別子鉱山の近代化へと向けられていく。別子の近代化を実施するにあたり、広瀬は「再三再四熟考シ、以テ其計画ヲ遂ケ、然ル後手ヲ下スベシ、事勿卒ニ渉レハ必弊害ヲ生スル、我言ヲ待サルベシ」と、慎重かつ確実に実施するよう諭している。

山銀札1869年、財政の逼迫で発行された山銀札。
別子山内に限り通用した。

明治9(1876)年2月24日、広瀬は、フランス人技師・ラロックの「別子鉱山目論見書」を参考に、東延斜坑の開鑿、牛車道の着工などの採鉱・運搬の近代化方針を指示した。ただし、製錬については、ラロックの机上プランを直接実施に移すことが難しかったため、目論見書の翻訳を手がけた塩野門之助の希望を入れ、店員の増田芳蔵とともに約5年間フランスに留学させることにした。
採鉱近代化の主眼となったのは、東延斜坑の開鑿である。幕末期、安政元(1854)年の大地震によって「三角すま」と呼ばれる富鉱帯が水没してしまった。この富鉱帯を再び採掘するためには、アリの巣のように狭く曲がりくねった従来の坑道では不可能で、水抜き坑道と近代的竪坑がどうしても必要であった。

明治元(1868)年、広瀬は、周囲の反対を押し切って小足谷疏水道の開鑿に着手、明治9年(1876)には海抜約1150メートルの東延から、49度の傾斜角で八番坑道レベルの「三角の富鉱帯」(海抜約750メートル)に向けて、横幅6メートル、縦幅2.7メートルの斜坑を掘削し、一番から八番坑道まで8本の横坑との連絡を目指した。斜坑全長526メートルの難工事で、明治28(1895)年の完成まで19年の歳月を要している。

別子鉱山坑内載面図別子鉱山坑内截面図。1895年のもの。
小足谷疏水道や斜坑、第一通洞などの名前が見える

また、別子鉱山は海抜1300メートルを超える高所にあり、物資輸送は、その経営を左右する重要な生命線であった。江戸時代から、物資の運搬は、中持衆という運搬夫に頼っていたが、広瀬はこの方法に限界を感じ、明治9年、鉱山から峠を越えて新居浜まで約39キロの牛車道建設に着手、13年に開通させた。
明治15(1882)年には、峻険な銅山越えの運搬ルートを回避するため、第一通洞というトンネル工事に着手した。ラロックは、日本人だけの力では不可能だと反対したが、広瀬はダイナマイトを導入、4年後には全長1021メートルをみごと貫通させている。

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