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住友の歴史と事業精神住友の歴史と事業精神

住友人物列伝:総理事と呼ばれた人たち

広瀬宰平 その三 2

文・末岡照啓

産出品標本
産出品標本広瀬が1892年に宮内省に提出した
別子鉱山産出品標本。上の写真には
KS銅、丁銅、荒銅、丸銅(丁銅と誤記あり)、
下の写真には銅以外の産出品(硫黄、
銑鉄など)が見える。
写真提供 住友史料館。

皇居前広場の楠木正成銅像は、その当時の広瀬の気概を最もよく表したモニュメントである。広瀬の本名は満忠(みつただ)である。忠義に満々とする思いは終生変わらず、明治元(一八六八)年、鉱山司の役人として、生野鉱山に出張する途中、神戸湊川の田園のなかに忘れ去られた楠公の墓碑を悲しく思っていた。この墓碑は元禄5(1692)年に水戸の徳川光圀によって建立されたもので、「嗚呼忠臣楠子(なんし)之墓」とある。これが、ようやく明治天皇の勅命により、湊川神社として建設されることを聞き、「神州正気将消処(神州の正気、将(まさ)に消えんとするところ)、留在公碑 一片中(留めて、公碑一片中に在り)」と、喜びの漢詩を詠んでいる。この思いは、明治23(1890)年別子開坑200年記念の献上品が、宮内省や関係先と協議のうえ、別子産銅の楠公銅像と決定したことで実を結んだ。

広瀬宰平の引退

広瀬の事業方針は、「別子の産物で国益を図り、その事業が住友一家を利するにとどまらず、広く国家社会に貢献するようにしたい」 というものであったが、本業の産銅事業はともかく、製鉄・化学事業は技術や採算性の問題から明らかに失敗であった。実用化には早すぎたのである。明治12(1879)年、宰平は大阪鰻谷(うなぎだに)の住友本邸に別子産銅で製作した銅橋をかけ、「事業は石橋を叩いて渡るがごとく、確実を旨とすべし」と家長以下自らも戒めていたが、失敗が明らかとなっても容易に撤退できなくなった宰平には老いが忍び寄っていた。

親族写真近江八幡の伊庭家を訪ねた際、
親族一同で撮影した写真。1987年頃のもの。
中列中央が宰平
その右が妻の幸
宰平の左が姉の田鶴
田鶴の左に甥の伊庭貞剛の顔が見える。
写真提供 北脇重康

明治26(1893)年9月、新居浜では製錬所の亜硫酸ガスが農作物を枯らす煙害が発生し、農民暴動を引き起こした。翌27(1894)年1月には、住友内部から宰平の事業方針が時代に合わないと誹謗中傷する向きが現れた。同年七月、甥の伊庭貞剛(いばていごう)が事態収拾のため別子支配人として赴任したが、その解決策は今や宰平の退陣以外に見あたらなかった。8月22日、宰平は家長友純(ともいと)の実兄西園寺公望(さいおんじきんもち)から住友家の将来に悪例を残さないよう「懇話切々」と勇退を諭された。宰平もそれにはまったく同感であったが、同月25日、新居浜の伊庭貞剛にだけは、「老生も忍んで生を養い候得共(そうらえども)、今に憤懣之気(ふんまんのき)、夜夢不忘(やむわすれず)、十月頃御出阪(ごしゅっぱん)を屈指相待居候(ゆびおりあいまちそうろう)」と、苦渋に満ちた真情を吐露している。11月15日に至り、宰平は自ら決断して、住友家総理人を辞職した。
思えば、広瀬の卓越した指導力によって住友家は危機を克服し、別子鉱山の近代化を達成した。激動期には宰平のような人物を必要としたのである。住友家は宰平の長年にわたる功労に対して、終身住友分家の上席に列し、総理人の資格をもって礼遇した。「57年夢飛ぶが如し・・・・」 とは、宰平引退の辞である。その心境を最もよく理解していたのが、甥の伊庭貞剛である。明治27(1894)年12月4日、伊庭が新居浜から近江八幡の実家に宛てた書状には、「57年之寒苦之功は顕(あら)ハれ、功なり名遂ケテ、身退クハ天ノ道ナリト云フ、古語ニ適中、安心喜楽、此上事(このうえのこと)と存候(ぞんじそうろう)」と記し、五七年間ひたすら住友家と別子銅山の発展に尽くした叔父の引退を祝福している。

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