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住友人物列伝:総理事と呼ばれた人たち

広瀬宰平 その三 3

文・末岡照啓

宰平と家族

明治27(1894)年11月、67歳で住友家を引退した広瀬は、その挨拶のため長男満正(まんせい)の家族を連れ、近江八幡西宿の伊庭家を訪ねた。伊庭貞剛の母田鶴(たづ)は宰平の実姉であり、長男満正の妻米(よね)は、貞剛の妹だったからである。天保七年(一八三六)、9歳から単身別子へ奉公に出さ れた宰平にとって、故郷の姉は母のように心安らぐ存在であった。同月二六日の伊庭家宛て宰平の書状では、「此度之江州遊(このたびのごうしゅうあそ)ひは、未曾有之快楽(みぞうのかいらく)、全老姉之配慮一方(まったくろうしのはいりょひとかた)ならす、呉(くれぐれ)も宜敷御伝意被下度(よろしくごでんいくだされたく)」とあり、姉への感謝の気持ちが満ちあふれている。

85歳の宰平と90歳の田鶴85歳の宰平と90歳の姉・田鶴。
1912年10月24日、 近江八幡の 伊庭邸にて撮影。
写真提供 住友史料館

豪快な仕事ぶりで知られる宰平だが、若いときには家庭的に恵まれなかった。孤独な奉公生活を経て、やっと27歳で新妻の相(あい)を娶り、広瀬家の夫婦養子となったが、難産により嬰児とともに亡くした。後妻の町(まち)は長男満正を出産したが、満正4歳、宰平35歳のときに病没している。幕末・維新期の宰平は、幼い長男を新居浜の養母に託し、住友家の家事に、あるいは国事にひとり奔走した。三番目の妻幸(こう)を迎えたのは明治8(1875)年、宰平48歳のときであった。20歳も年下の幸は、宰平の北海道旅行や欧米旅行に名刺を持って同行するなど活動的な女性であり、添い遂げられた晩年は幸せであった。

半世物語広瀬宰平の自伝『半世物語』。
1895年刊行。
序文は西園寺公望と住友友純による。
写真提供 住友史料館

明治28(1895)年3月、宰平は重責を全うした者の責務として、自伝『半世物語』を刊行し、後進の戒めとした。この本は現在もなお、すぐれた「企業者自伝」の草分けとして評価されている。
明治30年(1897)以降、宰平は須磨に隠棲したが、広瀬本邸のある新居浜ではなく、この地を選んだのは、家長友純の家族が須磨別邸に生活することになっていたからである。終生住友家の番頭をもって任じた「臣宰平」の面目躍如たるところであろう。須磨での宰平は、読書に書写・義太夫と悠々自適の生活を送った。たまに孫や曾孫が遊びに来ると、沖合の大阪商船の船影を見つけ、自らが考案した商船マークを見るよう望遠鏡を手渡すのであった。
大正3(1914)年1月31日、宰平は須磨で87年の生涯を終えた。遺骸は、ゆかりの大阪・新居浜・近江八幡の墓所に分骨埋葬された。

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