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住友の歴史と事業精神住友の歴史と事業精神

住友人物列伝:総理事と呼ばれた人たち

伊庭貞剛 その一 3

文・末岡照啓

四阪島全景1906(明治39)年の四阪島全景。
この前年から四阪島製錬所は操業を開始した。
写真提供 住友史料館

明治28(1895)年11月、伊庭は新居浜沖約20キロにある四阪島をその候補地とし、秘密裏に自分名義で買い取った。12月1日、伊庭は、政府に四阪島製錬所の建設願を提出したが、これを機に隣接町村の製錬所誘致運動が起こった。また翌年3月には、住友を引退していた広瀬宰平が、1煙害以外の損害にも目を向けるべきこと、2社会資本の整った新居浜から無人島に移転することは、費用の面、地域社会との信義上問題があること、3莫大な移転費用は、むしろ損害賠償に充てるべきこと、4移転は損害を拡大する可能性がある旨を忠告している。

別子山の環境対策

旧製錬吹処之図1881
旧製錬吹処之図。1881(明治14)年の撮影。
伊庭貞剛はこの山に自然を取り戻そうとした。
写真提供 住友史料館

四阪島全景
左の写真と同じ場所の現在の様子。
豊かな自然がよみがえった。
写真提供 住友史料館

広瀬の忠告は、当時の経営者として常識的であった。水の出ない無人島に、工場や港湾設備を建設し、社宅・学校・病院など社会資本を整備することは、はたから見ると「馬鹿な仕事」かもしれなかった。しかし、伊庭には将来別子の鉱石がなくなっても、鉱石を買って製錬する買鉱製錬には、同島が便利という判断もあった。伊庭はひたすら将来を信じて他の言に惑わされず、四阪島への移転を断行する一方、専門技師を雇い山林計画を策定、植林事業を敢行する。

明治27(1894)年、伊庭の別子支配人就任まで毎年平均6万本に満たなかった植林本数は、毎年100万本を超えるようになった。明治38(1905)年11月には、鉱毒水を国領川水系に流さないよう、海抜750メートルの第三通洞から新居浜の海岸まで、全長16キロに及ぶ煉瓦製の坑水路を築造し、鉱毒を中和処理する収銅所を設けている。  明治30(1897)年2月8日、着工された四阪島製錬所は、ようやく38年1月から操業を開始した。当初の起業費は50万円余であったが、着工時には91万円余に、完成時には173万円余に膨張していた。この金額は別子鉱山純利益の2年分に相当していた。伊庭の別子赴任前後から明治38年まで投資された起業資金は462万円余に達したが、彼は四阪島への移転・植林・坑水路などの環境対策にその約半分を使い切ったのである。

ビジョンをもった経営

明治38(1905)年1月、四阪島製錬所が操業を開始すると、煙害は予想に反して周辺部に拡大し、大きな社会問題となった。広瀬の不安は、思わぬかたちで的中したのである。田中正造もいうように、「予期せぬ被害」というのが20世紀初頭の公害問題であった。伊庭は製錬所の落成に際し、「これぞ吾精神を凝(ぎょう)して 勇断せし最後の事業也」と述べて、20世紀の課題に果敢に挑戦したのである。しかし、四阪島製錬所の煙害問題解決は、昭和14(1939)年、亜硫酸ガスの中和脱硫に成功するまで、実に三四年の歳月を要することになる。
伊庭は生前、煙害解決の快挙を見届けられなかった。しかし彼は、事業というものには、絶えず現実問題がつきまとうが、そうした現実に拘泥せず、理想という大きなビジョンを忘れてはならないと語っている。
ちょうど100年前、田中正造は「住友ハ、山ヲ以テ之ヲ子々孫々ニ伝ヘテ、之ヲ宝ニシテ置クト云フノデアル」と演説した。晩年の伊庭は、よみがえった緑を見て、別子の植林こそが「わしの、ほんたうの事業」と述べている。今世紀の環境問題を先取りした重い言葉である。

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