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住友の歴史と事業精神住友の歴史と事業精神

住友人物列伝:総理事と呼ばれた人たち

伊庭貞剛 その二 3

文・末岡照啓

引退の辞とその後

活機園外観活機園外観。
撮影 奥田 努

明治20(1887)年、伊庭は故郷の琵琶湖が見わたせる滋賀県石山に山林を買って、ここを終焉の場所と定めた。引退する17年前のことである。明治33(1900)年1月、住友家の総理事となったときも「最高の位、最高の禄、これを受くれば久しく止まるべきではない」というのが、その信念であった。就任から四年後の37年7月6日、伊庭は「老人は少壮者の邪魔をしないようにするといふことが一番必要だ」とし、また同時に「事業の進歩発達に最も害をするものは、青年の過失ではなくて、老人の跋扈である」との信念から、58歳の若さで引退した。理事の河上謹一や田辺貞吉もこれに従ったことはいうまでもない。

野口孫市設計の洋館ホール設計の洋館ホール野口孫市設計の洋館ホール。
写真提供 坂本勝比古

伊庭は、青年の功名心からくる過失はいたしかたないが、老人が地位と名誉に拘泥することには耐えられなかった。老人がいつまでもはびこることは、上下の意思疎通を欠き、そのことが後進のやる気をなくし、ひいては組織を崩壊に導くものと感じ取っていた。
「いくたびか浮きつ沈みつながらへて鳰の湖辺に身をよするかな」とは、伊庭引退の辞である。同年、伊庭は17年前に買いおいた大津石山の山林に別荘活機園を建てた。当時植えた松・杉・楓などの苗木は、庭木に適するほど成長していた。日本家屋の木材は、別子職員一同から餞別として贈られた木材を用い、別子在勤の記念とした。活機園に隠棲後は、湖舟・幽翁と号して、悠々自適の日々を送り、この地で大正15(1926)年10月23日の早朝没した。「活機」とは、俗世を離れながらも人情の機微に通じるという意味で、生前伊庭の人望を慕って活機園を訪ねる人は絶えなかった。

西川正治郎著の伊庭貞剛の伝記西川正治郎著の伊庭貞剛の伝記『幽翁』。
1933年に発行された。
写真提供 住友史料館

かつて川田順※1は、東海道列車が瀬田の鉄橋を通過する際、車中の住友人は窓ガラスに顔を押し付けて「あそこが伊庭さんの亡くなられた別荘だ」となつかしく思い出すらしいと記している。そしていま、東海道新幹線が京都を離れて東京方面へ10分ほど走った右手の水田に、玉垣に囲われた伊庭貞剛の墓所が見える。車中の喧噪を残して、きょうも新幹線が駆け抜けていく。

  • ※1 川田順 かわだ・じゅん
    1882年から1966年。東京都生まれ。東京大学文学部に入学後転科し、1907年東京大学法学部政治学科卒業。同年大阪の住友本店に入社。30年常務理事となり、36年筆頭重役を最後に退職。佐佐木信綱に師事し、住友在職時より『新古今集』の研究でも活躍。1942年第1回芸術院賞、44年朝日文化賞受賞。歌集多数のほか、『住友回想記』(中央公論社、図書出版社ほか)の著者としても知られる。

末岡照啓

文・末岡照啓
Sueoka Teruaki

住友史料館主席研究員。新居浜市広瀬歴史記念館名誉館長。1955年長崎県生まれ。78年國學院大學文学部史学科卒業。同年より住友史料館に勤務。主席研究員として現在にいたる。97年より新居浜市広瀬歴史記念館名誉館長を兼務する。

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