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住友の歴史と事業精神住友の歴史と事業精神

住友人物列伝:総理事と呼ばれた人たち

鈴木馬左也 その二 4

文・末岡照啓

合資会社の設立と番頭政治

住友総本店・合資会社ビル住友総本店・合資会社ビル(大阪北浜)
写真提供 住友史料館

大正10年(1921)2月26日、鈴木馬左也は住友吉左衞門の個人商店であった住友総本店を、資本金1億5000万円の住友合資会社に改組した。改組に携わった小畑忠良の回想によると、当時三井合名や三菱合資会社があったが、「鈴木さん始めどなたからも三井・三菱を手本にせよとの言葉は一言もなかった」と記している。事実、他の財閥では一般に経営者(使用人)が出資者たることを認められなかったが、住友合資会社では、経営者がオーナーと共に労務出資という形で出資者となった。それは、家長の住友吉左衞門(1億4800万円)と分家4名(200万円)が財産出資し、総理事鈴木馬左也と理事中田謹吉・湯川寛吉が労務出資するという形態であった。しかも、家長と経営者(鈴木・中田・湯川)は対等の無限責任社員であり、逆に分家は経営について発言権のない有限責任社員であった。

住友吉左衞門友純と鈴木馬左也・安子夫妻住友吉左衞門友純と
鈴木馬左也・安子夫妻(大正8年)
水魚のごとき信頼関係で結ばれていた。

先の小畑は、「商法では合資会社の業務執行は、無限責任社員の過半数で決めることになっている。こういうことでよいのだろうか(経営者が過半数を握っている)」との疑問を本店支配人の日高直次にぶつけたところ、日高は「今の家長さんと鈴木さんとは水魚の交わりとでもいう間柄だからできることで、この機を逃すと出来なくなるのだ。それとも君は、現在のような主人一人、他は使用人ということで将来ともよいのか」と反論されたという。それほどに家長友純は、鈴木馬左也を信頼していたのである。広瀬が住友家法で「君臨すれども統治せず」と定めた主人の地位は、鈴木によって公的に認知され、ここに住友の番頭政治が名実ともに確立されたのである。

引退とその後

大正9年(1920)11月29日、鈴木は大平駒槌あての書状で、「小生は終身住友に関係を保ち、及ぶだけ力を致し度」と、総理事続投の意欲を表明しつつも「ウヌボレ」を恐れ、「進退に付、肝要之場合はチョットヒントを御与へ下され」との見解を示した。明治37年(1904)以来16年もトップの座にある鈴木は、ワンマン経営の弊害をよく承知していた。よく承知しながらも、家長との信頼関係がこれを許さなかった。大正10年(1921)1月、鈴木は病気で倒れ、家長友純に辞職を希望したが、許可は下りなかった。大正11年(1922)3月再度病に倒れ、ようやく同年12月5日に許された。家長友純は、その感謝状の中で、「今日、我住友ヲシテ中外ニ重ヲ為スニ至ラシメタルモノ、誠ニ君ノ力ニ依ル。曩(さき)ニ、広瀬宰平翁ニ依テ成サレタル我家中興ノ緒業ハ、君ヲ得テ始テ大成セラレタリト謂ヘシ。」と述べている。鈴木はこれを見て安心したかのように同年12月25日に享年62で没した。

鈴木馬左也の墓所鈴木馬左也の墓所
宮崎県高鍋市に一族と共に眠る。

鈴木の没後、川田順は「哲人讃」と題して彼を次のように評している。
前略)「『事業は人なり』、先生しばしば此の金言を口にし給へり。住友の師弟を育成薫陶することは、先生の義務にあらずして愉楽の如くなりき。有能の後進を用意することは、先生に取って事業の基盤を据うると同じく不可欠なりき」。
それから80年余、故郷高鍋市の墓所は、今も馬左也の遺徳を偲ぶ「宮泉会」(きゅうせんかい、宮崎近県の住友グループ各社の会)の人々によって守られている。

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