1. ホーム
  2. 住友の歴史と事業精神:住友人物列伝:総理事と呼ばれた人たち:中田錦吉 2

住友の歴史と事業精神住友の歴史と事業精神

住友人物列伝:総理事と呼ばれた人たち

中田錦吉 2

文・末岡照啓

司法官から住友へ

小坂鉱山事務所小坂鉱山事務所
幕末期に発見された小坂鉱山は、
わが国を代表する官営鉱山であったが、
明治17年藤田組(現、同和鉱業)に払い下げられた。
同38年建築された鉱山事務所は、
平成14年住友活機園と共に
国の重要文化財に指定された。

明治23年(1890)7月、錦吉は東京帝国大学を卒業し、10月横浜始審裁判所判事となった。中田が司法官を目指したのは、幼少期の戊辰戦争が影響したのであろうか。公明正大な中立の途を司法界に求めたのである。以後、東京控訴院判事、横浜地方裁判所部長、水戸地方裁判所所長と累進し、32年10東京控訴院部長となった。
翌33年7月、中田錦吉は大学の3年先輩である鈴木馬左也の推挽によって住友に入社した。当時鈴木は、別子鉱業所支配人であり、2代総理事伊庭貞剛のもと広く人材を集めていた。中田は、鈴木の説く「公利公益」優先の住友精神に共鳴したのである。また、生家のあった大館は、小坂鉱山に隣接しており,鉱山業が国益に直結することも理解していた。 中田は、入社と同時に別子鉱業所副支配人となり、鈴木を補佐することになった。住友の歴代総理事は、広瀬宰平以来、別子鉱山勤務を経験しており、まさに中田は将来を嘱望されていた。

煙害問題と別子暴動

第3通洞第3通洞(明治35年)
住友史料館 提供
明治35年の貫通記念写真。
海抜750m、8番坑道レベルの
東延斜坑到達点に連結し、
大量出鉱体制が確立した。
中列に伊庭貞剛(右から2人目)と
中田錦吉(右端)が並ぶ。

東延斜坑機械場東延斜坑機械場(明治後期)
住友史料館提供
別子近代化の象徴的な立坑で、
8番坑レベルの富鉱帯を目指した。
この付近一帯が暴動の現場となった。

明治35年(1902)1月、本店支配人植村俊平は別子支配人に任命されたが、赴任しないまま4月に辞職した。これに伴い中田が後任の支配人に任命された。中田は、33年9月から別子鉱山のグランド・デザインを描く設計部長を兼務し、新居浜沖合約20キロの四阪島(しさかじま)製錬所建設、海抜750メートルの第三通洞(トンネル)出口に位置する東平(とうなる)採鉱本部と索道の建設を指揮していた。 明治38年1月竣工の四阪島製錬所は、伊庭貞剛が煙害問題解決のため新居浜から全面移転したものであったが、製錬高の急増と風向きの関係で、煙害は予想に反し、東予4郡(宇摩・新居・越智・周桑)に拡大した。41年8月、中田は後任の別子支配人と、東予の煙害被災地を視察した際、殺気だった農民1000人に包囲されたが、ひるむことなく、完全解決を目指して奔走した。
いっぽう、別子鉱山では、江戸時代以来の飯場(はんば)があり、当時17の飯場があった。各飯場には飯場頭がおり、その配下に兄弟分・子分がおよそ100人所属していた。江戸時代以来の鉱夫は、住友直接の雇人ではなかった。採鉱課から支給される賃金・安米は、飯場頭に支払われ、その配下の鉱夫は不当に搾取されることが多かった。
明治39年9月、中田は飯場取締規則を制定し、飯場の定数を20、賃金は鉱夫個々人に直接支払い、不良な飯場頭を罷免するとした。翌40年4月、扇動された鉱夫が、ダイナマイトで坑内や諸施設を爆破するという流言が広まった。同月、中田は鈴木総理事宛て書状の中で、これは「威喝的流言にして、此報告を信ずるは、却って彼らの手に乗りたるものならん」と述べ、断固たる処置で臨むとした。ついに6月4日、改革に不満を持つ飯場頭と鉱夫300名余は、事務所・社宅を放火するなど大暴動に発展した。中田は、鈴木総理事と相談し、愛媛県知事を通じて軍隊の出動を要請した。これに恐れを成した暴徒は、同月7日軍隊の到着を待たずに自主解散した。ここに、近代的な雇用関係が確立された。

四阪島製錬所
四阪島製錬所(6本煙突)
住友史料館提供
大正3年、亜硫酸ガスが 新居浜・今治へ
拡散しないよう建築。同6年失敗により停止。
煙害解決をめざした試行錯誤は、
日夜繰り返されていた。

旧住友銀行の新居浜支店
旧住友銀行の新居浜支店
新居浜市広瀬歴史記念館提供
明治34年、新居浜の惣開(そうびらき)に竣工。
現存最古の支店建物として、平成13年
国の登録文化財に指定された。
現在、住友化学愛媛工場歴史資料館となっている。

BACKTOPNEXT

ページの先頭へ戻る

住友グループ広報委員会 Copyright © 2016 Sumitomo Group Public Affairs Committee All Rights Reserved.