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住友の歴史と事業精神住友の歴史と事業精神

住友人物列伝:総理事と呼ばれた人たち

中田錦吉 3

文・末岡照啓

総理事就任と事業展開

住友伸銅所住友伸銅所(安治川時代)
大正14年3月大阪公設市場の敷地として
市に譲渡された。

住友生命・信託の設立書類住友生命・信託の設立書類
住友史料館所蔵
中田総理事は、欧米商工視察の経験から、
金融部門の拡充に熱心であった。

明治36年(1903)5月、中田は別子在勤のまま大阪本店理事となっていたが、ようやく41年3月に久保無二雄に別子支配人を譲って復帰した。翌年3月から12月まで、商工視察のため欧米へ出張し、43年3月からは銀行支配人を兼務した。45年2月には、銀行を株式会社に改組し、その実質的トップである常務取締役を兼務した。大正4年(1915)には、鋳鋼所(住友金属の前身)、同8年には大阪北港(住友商事の前身)、9年電線(現、住友電工)・日本電気の各取締役に就任した。10年2月設立の住友合資会社では、常務理事となり、鈴木の女房役として活躍した。
大正11年12月5日、中田は鈴木総理事の病気引退を承けて、4代総理事に就任した。これに当たり中田は、住友家法と鈴木前総理事の方針を継承するのが私の責務であると宣言した。翌13年1月の主管者(幹部社員)会議では、具体的に「経済生活ヲ、射利営利ノ葛藤、修羅場ト見做サズ、人類ノ文明社会ノ一方面ナリトシテ、其ノ道徳的ニ発達スル様、尽力セラレンコトヲ希望スルノデアリマス、而(しか)シテ是、各位ガ住友ノ事業ヲ通ジテ、国家ノ健全ナル発達ニ貢献シ、社会ノ向上改善ニ脾益(ひえき)セラル」ようにと訓辞。住友の事業は、単なる営利目的の修羅場ではなく、国家社会に貢献するものとした。
当時の住友は、第1次大戦後の恐慌期にあったが、中田の行動はすばやかった。大正13年1月、本社人事部第2課に労務係と施設係を置き、激化する労働運動に対処した。10月には、北海道の坂炭坑を買収し、翌年10月住友坂炭坑(住友石炭の前身)を設立。14年3月、大阪市の公設市場設立に応じ、安治川の住友伸銅所(住友金属の前身)と住友倉庫の敷地約2万7000坪を同市に譲渡、両社はそれぞれ下流右岸の桜島と対岸の川口に移転した。4月には住友製品の販売店を神戸と名古屋に設置(住友商事の前身)、6月には肥料製造所(住友化学の前身)を株式会社とし、大阪の日之出生命(住友生命の前身)を買収。7月には住友信託銀行を設立した。

謹厳・実直な引き際

大正14年(1925)10月1日、中田は冒頭に記したように、自ら停年制を敷き、その規定にしたがって辞職した。元司法官らしいみごとな引き際である。
わが国における停年制の採用は、昭和8年(1933)でも336社中140社、三井合名会社でも昭和11年だったという。江戸時代以来の商家としては、かなり早かった。2代総理事伊庭貞剛は58歳で引退し、「老人の跋扈」を戒めたが、これを成文化した中田の意義は大きい。
大正15年2月20日、中田謹吉は肺気腫によって、享年63で没した。引退してわずか半年後のこと、親友の平沼騏一郎(司法官・総理大臣)は、「モッと生かして置きたかった…」とその急逝を悼んだ。法名は「北秋院実道質直居士」、大阪市の瓜破(うりわり)霊園に眠っている。

晩年の中田総理事
晩年の中田総理事
住友史料館提供
謹厳・実直な高士であった。

中田錦吉の墓所
中田錦吉の墓所
法名に、大館への郷愁がにじむ。
大阪市平野区の瓜破霊園で妻子と共に眠る(墓所NO.1-3)。

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