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住友の歴史と事業精神住友の歴史と事業精神

住友人物列伝:総理事と呼ばれた人たち

湯川寛吉 2

文・末岡照啓

逓信省から住友へ

逓信省逓信省
創建当初の建物である(『郵政百年史資料』より)

明治23年(1890)7月、湯川寛吉は東京帝国大学を卒業し、同月14日逓信省に入省した。同27年には日清戦争の野戦高等郵便局長として戦地で活躍、翌年8月には、東京郵便電信学校の校長として幾多の優秀な職員を養成した。30年3月万国郵便会議委員として外遊、30年逓信省参事官、31年東京郵便電信局長、32年外務省参事官兼任、36年東京通信管理局長などを歴任した。湯川は、ドイツを参考にわが国の通信制度を確立しようとしたが、当時の政府は熱心ではなく、官界に希望を見出せずにいた。
明治38年2月17日、湯川は大学の先輩である鈴木馬左也の推挽によって住友に入社した。「公利公益」の事業精神に共感するとともに、欧米視察の経験から、鋼板・電線など国内メーカーの育成が急務と感じたからである。湯川は入社と同時に本店支配人となり、鈴木総理事の補佐役となった。43年4月には理事に昇進し、鈴木・中田に次ぐナンバースリーに位置した。

製造業の確立

明治43年(1910)5月、湯川は住友伸銅場支配人(住友金属・住友電工・住友軽金属の前身)を兼務することになり、住友の製造業を一流メーカーに育成しようとした。
まず、湯川は明治43年から44年にかけて、伸銅場の製管事業に取り組んだ。40年海軍は「八八艦隊」と称する艦船増強を進めていたが、当時のわが国では、罐管(かまくだ)や覆水器官など高級管類は製作不能で、輸入に頼らざるを得なかった。湯川は、海軍工廠や英国から技術者を招き、45年5月には民間企業として初のシームレスパイプ(継目無し鋼管)の製造に成功した。
次いで明治44年8月、湯川は伸銅場から電線事業を分離し、住友電線製造所(住友電工の前身)を設立した。逓信省にいた経験から、電線事業の発展を見越したのであり、被覆電線、通信・電気ケーブルの製造を本格化し、その国産化に成功した。大正9年には、通信ケーブルとの関係から日本電気に資本参加、通信事業に進出した。
大正4年には、住友鋳鋼所(住友金属の前身)の取締役、14年には取締役会長となり、海軍や鉄道用の外輪・輪軸・歯車・台車などの国産製鋼品を生み出した。かつて米国の製鋼所で体験した恥辱をここに払拭したのである。

住友伸銅鋼管のシームレスパイプ
住友伸銅鋼管の
シームレスパイプ(昭和元年)
住友史料館提供
現在でもシームレスパイプは、
住友の主力製品である。

住友電線製造所のケーブル工場
住友電線製造所のケーブル工場(昭和元年)
住友史料館提供
大正11年10月、新居浜から四阪島製錬所に
敷設された住友の海底ケーブルは、
当時世界最長の20kmであった。

住友製鋼所の車輪工場
住友製鋼所の車輪工場(昭和元年)
住友史料館提供
住友の鉄道用台車・車輪は、
わが国のトップシェアーであった。

金融の国際化

住友銀行東京支店住友銀行東京支店(現、SMBC日本橋中央支店)
住友史料館提供
大正6年10月竣工。
住友の東京拠点として兜町より移転、
同12年の関東大震災、昭和20年の戦災でも
焼け残ったが、昭和47年現店舗に建替えられた。

明治45年(1912)2月、住友銀行が株式会社に改組されたとき、湯川は取締役であった。大正4年(1915)実質トップの常務取締役に就任すると、「きょうから銀行を引き受けることになったが、拙者の考えではこれから外国取り引きの新分野を開拓することが肝心だ」と述べた。翌年、わが国移民の送金の便を図るためカリフォルニアとハワイに支店を設置した。市中邦銀最初の海外支店であった。湯川は、逓信省時代にベルギーの簡易保険制度導入に関与した。また郵便為替貯金管理所長だったこともあり、国際金融の重要性を熟知していたのである。その後、大正10年に大阪手形交換所委員長に就任した。昭和2年(1927)の金融恐慌に際しては金融安定に尽力し、輸出手形保証制度の創設を提唱した。特に中小商工業金融に対しては、「従来取レル方法ヨリモ一層面倒ヲ見テ貸出ヲナス」と、道義に基づいた方針を示した。

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