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住友の歴史と事業精神住友の歴史と事業精神

住友人物列伝:総理事と呼ばれた人たち

小倉正恆 2

文・末岡照啓

内務省から住友へ

小倉正恆と住友の重役小倉正恆と住友の重役(明治44年)
住友史料館提供
後列中央が小倉正恆、その右中田錦吉、
前列右住友友純、その左鈴木馬左也。

明治30年(1897)7月、大学を卒業した小倉は先輩の薦めで内務省に入り、翌年12月山口県参事官に任命された。国家のため、あるいは地方のためと高い志を抱いていた22歳の青年官僚に与えられた仕事は、高位高官への接待や、地域行事や宴会への出席であった。正義感の強い小倉にとって、こうした生活は耐えがたく思い悩んでいた。
そんなとき、内務省の先輩で別子鉱業所支配人となっていた鈴木馬左也から住友への勧誘を受けた。小倉はオーナーの吉左衞門友純や経営トップの伊庭貞剛の人柄に接し、明治32年5月住友に入社した。時に24歳、はた目には早すぎる転身に映ったであろうが、本人に迷いはなかった。後にその感慨について、「一家に家風ある如く、会社には自らの社風がある。社風とは畢竟(ひっきょう)事業主なり事業統率者の人格反映に過ぎない。住友は幸いにして代々聡明の主人と人格高潔なる統率者に恵まれた」と語っている。

人を信じてよく使う

住友銀行神戸支店の店内風景住友銀行神戸支店の店内風景(明治後期)
住友史料館提供
高くて堅牢な受付が、時代を感じさせる。

明治38年(1905)、欧米の人物・社会情勢を研究して帰国した小倉は、翌年から銀行・倉庫の神戸支店支配人を勤めたが、偽造小切手の支払い事件が起こった。係の責任者が青ざめて支配人の小倉に告げると、彼は泰然として印鑑簿をもってこさせ、その小切手の印鑑とじっと見比べながら「なるほど、わしでもまちがえて払っただろう」と言うだけであった。小倉は、「人間は他から彼れ此れと注意しても駄目なもので、自覚するのでなければ改まらない」と考えていた。小言を言うのではなく、自省を待つ。「人を信じて人をよく使う」これが小倉流のやり方であった。
大正2年(1913)6月、小倉は総本店支配人となった。このとき、各店部からくる重要な問題はすべて小倉の所に集まり、総理事への決裁案を作成した。小倉は、事業の大綱を知りうる機会に恵まれた。明治末から大正期にかけて、住友の事業は別子銅山から重化学工業や金融業へと発展したが、小倉も大正7年理事へと重役に昇進した。

鴻之舞金山の開発

そんな小倉が自ら決断した事業が、金山の開発である。住友は、四国に別子銅山を経営していたが、大正8年(1919)から電線の需要に応じるため、電気銅の生産に入った。その溶剤として金銀を含む珪石を必要とし、電気精錬の過程で銅と共に金銀が採れる利点もあった。また第一次世界大戦後の不況に対し、「実業家は価値変動の少ない金山を持つべし」という持論もあった。
大正6年小倉は、北海道紋別で発見された鴻之舞金山の買収交渉に当たった。事前に家長・総理事の了解を取り付け、鉱区所有者8人に対し、言い値の90万円でさっさと買ってしまった。
開坑後は鉱脈に当たらず閉山の危機にも直面したが、小倉は担当技師の言葉を信じ、「人間というものは、失意のときには進む一方、得意のときには退く一方、これが大事である」と述べて、さらに投資して鉱脈の探索を続けた。こうして、大正14年大鉱脈を発見し、鴻之舞は東洋一の産金高を誇った。金鉱山を住友の事業に育成したのである。

逓信省
上藻別駅逓
大正15年、紋別から鴻之舞金山へ行く途中に建て
られ、旅人に宿と馬を提供した。北海道で現存する
駅逓8か所の1つであるが、景観がよく保存されている。

逓信省
鴻之舞金山跡の全景
製錬所の煙突を背景に、
往時は道路の左右に
社宅や金山施設があった。

逓信省
鴻之舞金山の坑口跡
昭和6年開坑の五号坑(倶知安内)第一通洞。東洋
一の産金高を誇った主要坑道であった。坑口題字の
「倶知安内第一通洞」は小倉正恆の書になる。

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