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住友の歴史と事業精神住友の歴史と事業精神

住友人物列伝:総理事と呼ばれた人たち

小倉正恆 3

文・末岡照啓

総理事就任と人材の育成

住友ビルデイング住友ビルデイング(昭和8年)
住友史料館提供
大正11年着工、昭和5年に竣工した5階建て
ビル。住友本社と共に連系各社が入居。
現在、三井住友銀行本店ビルとなっている。

昭和5年(1930)8月小倉正恆は、湯川寛吉の跡を継ぎ、6代住友総理事となった。小倉は就任の挨拶で「住友の信用、声望も段々高まって来て居りおります(中略)。幸い私は長年厄介になりまして歴代総理事の型を承知して居りますから、これを思い出し、それを守って行く外ありません」と述べた。小倉は、広瀬・伊庭・鈴木など歴代総理事がそれぞれのやり方で堅持してきた事業精神をこれからも継承すると宣言したのであり、その根本精神は、「住友の利益を収めるばかりでなく、国家社会に奉仕すること」と断言している。
また、真に国家的有能な人材を育成するため、新入社員に対し、「みんなはこれから財界に入るのだが、財界というところは、ただ金を儲けるだけではいかん。先ず人間として立派でなくちゃ駄目だ、人間を磨け」と演説した。これを聞いた日向方斉や亀井正夫は、その高い理想に何ともいえない感動を覚えたと述懐しているが、このときの感動が後に関西空港や国鉄の分割民営化など、国家的プロジェクトに発揮されたのであろう。

別子開坑250年祭と総理事退任

新居浜港住友工場全景住友金属鉱山所蔵
昭和15年の別子開坑250年を記念して
作成された日本画。鉱山から派生した
化学・機械・アルミなどの工場群が画か
れている。画は武田耕雪、讃は小倉正恆である。

昭和15年(1940)5月、別子銅山は開坑250年という慶事を迎え、新居浜で盛大な式典が開催された。前年、新居浜築港が完成し、四阪島製錬所の煙害問題も中和工場の完成によって完全解決した。席上小倉は「住友の事業はわが国産業界のほとんどあらゆる部門に渉っており(中略)、人員の数は約八万人に上り」とその発展を言祝いだ。小倉総理事の時代、住友は傘下企業の再編に努め、昭和12年3月住友合資会社を株式会社住友本社に改組した。連係会社は金属・電線・化学・機械・銀行・信託・倉庫・生命など13社に拡大した。
小倉は総理事就任以来、貴族院議員や内閣審議会委員として国家の経済政策や道徳教育について提言しており、昭和16年4月第二次近衛内閣の国務大臣として迎えられた。同月、小倉は専務理事の古田俊之助に総理事を譲り、退任の挨拶で社員一同に「自分は11年間住友を指導してきた。その間、自分は事業を起こすにあたって、利益になるかではなく、そのときにそれが道義にかなっているかどうかということをいつも考えてきた。そうすれば間違いがない」と述べ、万感の思いを込めて「身は住友を去るが、心は住友を去らない」と告げた。16代家長友成は、小倉の多幸を祈り「四十二年勤めし君は老いの身をささげ竭(つく)さむ国の重きに」との和歌を贈った。

その後の小倉正恆

大臣就任式
大臣就任式(昭和16年、第3次
近衛内閣)
住友史料館提供
前列中央が近衛総理、その左
が小倉蔵相。昭和16年7月第3
次近衛内閣の大蔵大臣となる
が、10月東条内閣の成立によ
り辞任。

小倉正恆の墓所
小倉正恆の墓所
東京都港区の青山墓地に
家族と共に眠る(墓地NO.一
種口16号9側)。
法名は「正覚院殿恆心簡斎
大居士」。

昭和16年(1941)7月、小倉は第三次近衛内閣の大蔵大臣となった。その最大の仕事は、電力の国家統制であり、9配電統制会社の設立であった。同年10月、近衛内閣が倒れて東条内閣ができると、東条に留任を求められたが、「近衛さんの懇望によって入閣したので、留まる理由も意思もないと」と断った。太平洋戦争中は、南京の国民政府の経済最高顧問として日中間の融和に尽力したが、果たさず昭和21年帰国した。その後も日中の文化交流に尽力し、23年中国関係の蔵書を「簡斎文庫」として愛知大学(東亜同文書院の後身)に寄贈し、30年には郭沫若文庫(現、アジア・アフリカ図書館)を設立した。
昭和36年11月20日、小倉正恆は87歳の大往生を遂げ、東京青山墓地に眠っている。かつて新入社員の面接を受けた俳人の山口誓子は、小倉の訃報に接し、「住友の親を悲しむ冬紅葉」という句を贈った。住友の人々が慈父と慕ったその生涯は、華やかにして寂びた「冬紅葉」に映じたという。

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