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住友の歴史と事業精神住友の歴史と事業精神

住友人物列伝:総理事と呼ばれた人たち

古田俊之助 2

文・末岡照啓

住友伸銅場の大移転

大正14年(1925)2月、古田は住友伸銅場の支配人に昇進したが、妻正子を亡くした。後には幼い二男二女が残され、その二年後には長女も急逝した。当時古田は伸銅場支配人として、大阪卸売市場となる安治川工場の移転指揮を執っていた。鋼管部門を尼崎、非鉄部門を大阪の桜島(現、大阪市此花区島屋町)へ同時に移転する難問を抱え、軍需品の生産は中断を許されなかった。よって移転計画は三年以上の長期計画となり、翌年伸銅場は住友直営から住友伸銅鋼管(株)に改組された。古田は同社の取締役として引き続き指揮を執り、ようやく昭和3年(1928)11月、桜島工場が完成し、天皇行幸の栄えを賜った。
後年、古田は部下に「くやしいことがあったら、命がけの仕事を探しだして、それと取っ組むがよい」と語った。最愛の家族を亡くした傷心は深かった。

住友伸銅場の桜島工場
住友伸銅場の桜島工場(昭和3年)
住友史料館提供
大阪湾に面し、背後に六甲山の山並みが見える。
運河に囲まれた近代的工場であった。

昭和天皇の桜島工場臨幸
昭和天皇の桜島工場臨幸(昭和3年)
住友史料館提供
写真中央の昭和天皇を、先導する古田俊之助。

欧米出張と新規事業

零式艦上戦闘機零式艦上戦闘機
『人と技術と 住友金属の100年』よりわが国を
代表する戦闘機の零戦は、機体に住友金属が
開発した超々ジュラルミンと可変ピッチプロペラ
を採用していた。

昭和3年(1928)8月、古田は住友伸銅鋼管㈱の常務取締役となり、9月欧米出張を命ぜられた。古田は、カナダのアルキャン社と交渉し、合弁会社設立の腹案を持って5年5月に帰国した。同年8月、小倉正恆が総理事となり、古田の上司となった。翌6年4月、古田は大阪府八尾にアルキャン社と合弁で住友アルミニウム(株)(現、東洋アルミ)を設立し、その加工製造に進出した。
同7年11月、古田のもとへ海軍航空本部の技術部長山本五十六(後の連合艦隊司令長官)が訪れた。山本は古田に、住友は航空機の素材としてジュラルミンを提供しているが、素材ばかりでなく、金属プロペラへの進出を要請した。古田はこれに応じ、翌年2月大阪桜島でプロペラ工場の建設に着手し、ハミルトン式プロペラを製造した。これは海軍の零戦に取り付けられたが、その抜群の機動力はよく知られている。古田と山本の友情は終生変わらず、山本は「帝国海軍の将来のため、材料のジュラルミンの研究と製造によく協力してくれた」と古田に謝意を述べた。

金属トップから総理事へ

古田総理事の就任記念古田総理事の就任記念(昭和16年)
住友史料館提供
本社屋上での集合写真を拡大。
右隣が国務大臣となった小倉前総
理事

昭和8年(1933)1月、古田は住友伸銅鋼管(株)の専務取締役となった。住友では「社長」といえば家長のことで、連系会社の専務が実質の社長であった。同10年9月、伸銅鋼管と製鋼所が合併して住友金属(株)になると、引き続き同社の専務となった。前年9月には満州住友金属が設立され、その専務も兼ね、金属工業全般の指揮を執った。
11年5月、次の総理事と目された川田順が住友を辞職すると、小倉総理事は古田を本社理事に抜擢し、住友全体のことを学ばせた。翌年3月、住友合資会社を株式会社に改組すると、古田は13年1月専務理事となり、16年4月7代目総理事に就任した。初代広瀬宰平いらい生え抜きの総理事であった。小倉は古田を抜擢した時から「住友の伝統と方針をよく守り、才腕よりも徳望がある」資質を高く評価していた。
この頃、住友銀行の一取引先に過ぎなかった松下幸之助は、住友の総帥となった古田から「将来を期待していますよ」と挨拶され感激し、この経験が「経営者の根本は、お得意さまを大切にする」松下の理念になったという。

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