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住友の歴史と事業精神住友の歴史と事業精神

住友人物列伝:総理事と呼ばれた人たち

古田俊之助 3

文・末岡照啓

戦時の難局

和歌山製鉄所の全景和歌山製鉄所の全景(戦前 部分)
『人と技術と 住友金属の100年』より
昭和15年、和歌山の臨海部130万坪を買入れ、銑鋼一貫の高炉建設
をめざしたが、平炉・電気炉にとどまった。その後、昭和36年に念願の
高炉が完成した。

登呂遺跡登呂遺跡
昭和18年、静岡市高松で、住友金属プロペラ製造所の造成中に発見
された。昭和22年から本格的に水田跡が発掘され、弥生時代の稲作
文化研究のさきがけとなった。

昭和16年(1941)4月、小倉から総理事を指名された古田は、理事たちの上に君臨する総理事ではなく、まとめ役の理事長を希望したが、許されなかった。そこで古田総理事は、専務理事を廃して、常務理事三名を置き、連系各社に社長制を敷いて有能な人材のまとめ役に徹した。また、総理事就任の挨拶では、「日独伊三国同盟により、わが国の経済は従来の英米依存型から独立独歩型へ転換せざるをえない」と、今後の苦難を予告し、「事業ノ盛衰ハ人ニアリ」と人材の育成を要請した。
同年12月8日わが国は第二次世界大戦に突入し、18年にかけて住友各社は、金属の和歌山製鉄所建設を筆頭に、全国各地で工場の増設に邁進した。ちなみに静岡県の登呂遺跡はこのとき発見されたものである。
18年8月、大蔵省は戦時金融のため、金融機関の合併を命じた。住友と三和銀行との合併はまぬがれたが、住友と大阪海上火災は翌年3月合併して、大阪住友海上火災(株)となった。翌年1月には、住友鉱業・金属・電工・化学・機械・アルミ・通信(NEC)・共同電力・板硝子・化工材工業が軍需会社に指定され、住友の各メーカーは国策会社となった。同年9月、古田総理事は「住友戦時総力会議」を創設し、本社の権限を総力会議に移すことで、政府の統制に対処しようとした。

住友本社の解散

住友本社の解散式住友本社の解散式(昭和21年 本社屋上にて)
住友史料館提供
前から3列目中央が古田俊之助。

昭和20年(1945)8月15日の敗戦に際し、古田は住友全権を委任された総理事として、16代家長友成と住友傘下企業35社の約20万人を守らねばならなかった。古田はGHQ(連合国軍総司令部)との交渉で、「住友の全責任は私にあって、他の何人にもない」と説明した。古田は公私の別を考えると、住友の事業と人をさきに、住友家のことは後にせざるを得ないと判断し、翌年1月率先して住友本社を解散した。だが、古田は各社に対し、「住友は営利だけを目的とせず、正しい事業を進めていく、他に類のない伝統がある。住友の各事業は兄弟分であることをあくまでも失わないように精神的に提携してやって頂きたい」と述べた。資本関係がなくなっても、住友の事業精神を遺伝子(DNA)として共有し、守り伝えてほしいと希望したのである。

晩年の古田

古田俊之助遺影誠実で温厚な人柄であっ
た。2代総理事伊庭貞剛
を敬愛し、伝記『幽翁』を
知人に配ったこともある。

古田俊之助の墓所古田俊之助の墓所
西宮市の満池谷墓地に
家族と共に眠る(墓地NO.
4区-8-24)。法名は「宝
徳院殿大常俊達居士」。

昭和26年(1951)8月、公職追放が解けても、古田は住友に戻らなかった。「若い世代を育てよう、古い者が幅をきかす時でない」が口癖であり、連系の元社長も古田に従った。住友各社では課長クラスが社長となり、若い力で住友の遺伝子を継承し、戦後の発展を築いた。27年6月、古田は吉田内閣の経済最高顧問となり、財界のご意見番を期待されたが、戦中戦後の疲れが出たのか、28年3月23日享年68で急逝した。
16代家長友成(歌人「泉幸吉」)は、霊前に「敗戦の くるしき時も痩するまで われを扶けて もはら(専)なりにき」の挽歌を供えた。古田は最後の総理事として、誠実にその職責をまっとうしたのである。

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