鈴木馬左也 その2

文・末岡照啓

面接試験

住友の採用試験に当たり、総理事鈴木馬左也は他の重役とともに必ず面接し、受験者ひとりひとりと口頭試問をするのが常であった。時に学生との討論が1から2時間も続いたことがあった。ある社員が、総理事を始め重役方が面接に時間をかけたり、一週間も東京方面の面接に出張したら、事務が渋滞し、商機を逸して損害を蒙るのではないかとの危惧を上申したとき、鈴木は「それは一時の損に過ぎない。しかし一人の天下の人材を取り逃がすための損失は永久であり、測り知る可らざるものがある。」と諭している。
鈴木は、採用にあたって誠心誠意の人であった。大正5年(1916)11月15日、鈴木総理事から採用の書状をもらった小畑忠良(東京帝大卒、電工取締役、住友辞職後に企画院次長)は、そのときは秘書の代筆であろうとあまり気にも留めなかったが、総理事没後にその書状が直筆と分かり、生前に気づかなかったことを悔いたという。直筆の書状には、礼を尽くして迎えたいという鈴木総理事の思いがあった。

鈴木馬左也(晩年)
鈴木馬左也(晩年)

人材の育成

鈴木馬左也書状
鈴木馬左也書状(大正5年11月15日)
小畑は、この書状を額装し、自宅の書斎に掲げ、鈴木の徳を偲んだという。

鈴木は、住友の新入社員をすべて本店の一括採用とし、本人の希望等を勘案して別子・伸銅・鋳鋼・電線製造所・肥料製造所・銀行などの各店部に配属した。そのため、本店であろうとどの店部であろうと待遇は同一であった。
大正7年(1918)11月、鈴木は大阪鰻谷の旧住友本邸跡に「寧静寮」という新入社員の独身寮を建てた。寮名は鈴木の命名で、『三国志』の「寧静に非ざれは以て遠きを致すなし」による。将来を託す人材育成に思いを致したのである。鈴木は、つねづね「実業というものを、如何にして国家の為、人類の為に経営していくべきか」について考慮し、そのためには、将来を託す若い人材を集め、その能力を十分に発揮させる必要を感じていた。自分の思いを伝えるため、たびたび寮に宿泊して訓示し、若い人材と忌憚なく語り合った。

寧静寮にて寮員と共に
寧静寮にて寮員と共に(大正8年3月)前列中央 帽子の人物が鈴木
写真提供 住友史料館

学生を住友に紹介した東京帝大教授の新渡戸稲造(にとべ いなぞう)は、そのような鈴木馬左也について「日本の実業家に珍しい人物がある。それは大阪の住友家の総理事をして居る鈴木馬左也と言う人で、実業界にもこの様な人物が居る事は、日本の為に非常に喜ぶべき事である」と述べている。

北辰衆星の人材

四阪島製錬所
四阪島製錬所(昭和初期)大煙突・電信柱など大改造後の様子が写されている。
写真提供 住友史料館

そんな鈴木に惹かれ、明治末から大正期にかけて入社した人材は、実に多士済々であった。東京控訴院(現在の高等裁判所)から中田錦吉、逓信省から湯川寛吉(5代総理事)、内務省から小倉正恆(6代総理事、のち大蔵大臣)、農商務省から大平駒槌(別子鉱業所支配人、のち満鉄副総裁)などを迎えた。生え抜きの社員養成にも怠りなく、川田順(本社常務理事、のち歌人)・鷲尾勘解治(別子鉱山専務)・古田俊之助(7代総理事)、北沢敬二郎(本社理事、のち大丸社長)・田中良雄(同理事、のち大阪市教育長)・河井昇三郎(同理事、大阪建物社長)、小畑忠良などは、その後の住友発展の原動力となった。そのほか、建築関係では、長谷部鋭吉・竹越建造(現、日建設計の設立者)がおり、内村鑑三門下のキリスト者である江原万里(東京帝大教授)・黒崎幸吉・矢内原忠雄(東大総長)や、日本共産党の細川嘉六も一時住友に籍を置いた。
論語に「政(まつりごと)を為すに徳を以てす、譬(たと)えば北辰その所に居て、而(しか)して衆星之(これ)と共にするが如し」にあるが、まさに北辰(北極星)たる鈴木の理念のもとに、きら星のごとく輝いた人材が集まったのである。

人材の活用

6代目総理事となる小倉正恆は、鈴木馬左也に仕えた思い出を次のように語っている。「鈴木さんは、人を信頼する迄は種々細かいことを云われるが、一旦信頼されたら徹底的に信頼され、絶対任せっきりで何も云われなかった」。
大正7年(1918)5月、別子鉱業所支配人に就任した大平駒槌(おおだいら こまつち)は、別子鉱山・四阪島製錬所の大改造計画をまとめた。採鉱・選鉱・製錬・運搬・鉱石の売買・送電等15にのぼる大起業であったが、なかでも総額800万円という投資と、新居浜から四阪島まで当時世界最長20キロの海底ケーブルの敷設については、異論が続出した。しかし、鈴木はあくまで大平を信頼して事業を貫徹させ、別子鉱山を蘇えらせた。
また、鷲尾勘解治が別子鉱業所のヒラ社員だったとき、別子の労使関係の改善を上申したが、直属の上司に反対されて腐っていたところ、鈴木はこれを採用して断行させてくれた。鉱夫たちの私塾開設にも賛同し、「自彊舎(じきょうしゃ)」と命名してくれた。のちに鷲尾は、「士は己を信ずるものの為には命をも致す」と述懐している。
いっぽう、第一次世界大戦の好景気を背景として、大正3年以降わが国では商事会社の設立が相次いだが、鈴木は社内の設立論者に対して、「住友では商売をする人材を養成していないので、時期尚早である」と反論した。鈴木の言うとおり、大戦後の反動から商社が倒産し、本業に打撃を受けた会社が続出したが、住友は無傷であった。

合資会社の設立と番頭政治

住友総本店・合資会社ビル
住友総本店・合資会社ビル(大阪北浜)
写真提供 住友史料館

大正10年(1921)2月26日、鈴木馬左也は住友吉左衞門の個人商店であった住友総本店を、資本金1億5000万円の住友合資会社に改組した。改組に携わった小畑忠良の回想によると、当時三井合名や三菱合資会社があったが、「鈴木さん始めどなたからも三井・三菱を手本にせよとの言葉は一言もなかった」と記している。事実、他の財閥では一般に経営者(使用人)が出資者たることを認められなかったが、住友合資会社では、経営者がオーナーと共に労務出資という形で出資者となった。それは、家長の住友吉左衞門(1億4800万円)と分家4名(200万円)が財産出資し、総理事鈴木馬左也と理事中田謹吉・湯川寛吉が労務出資するという形態であった。しかも、家長と経営者(鈴木・中田・湯川)は対等の無限責任社員であり、逆に分家は経営について発言権のない有限責任社員であった。

住友吉左衞門友純と鈴木馬左也・安子夫妻
住友吉左衞門友純と鈴木馬左也・安子夫妻(大正8年)
水魚のごとき信頼関係で結ばれていた。

先の小畑は、「商法では合資会社の業務執行は、無限責任社員の過半数で決めることになっている。こういうことでよいのだろうか(経営者が過半数を握っている)」との疑問を本店支配人の日高直次にぶつけたところ、日高は「今の家長さんと鈴木さんとは水魚の交わりとでもいう間柄だからできることで、この機を逃すと出来なくなるのだ。それとも君は、現在のような主人一人、他は使用人ということで将来ともよいのか」と反論されたという。それほどに家長友純は、鈴木馬左也を信頼していたのである。広瀬が住友家法で「君臨すれども統治せず」と定めた主人の地位は、鈴木によって公的に認知され、ここに住友の番頭政治が名実ともに確立されたのである。

引退とその後

大正9年(1920)11月29日、鈴木は大平駒槌あての書状で、「小生は終身住友に関係を保ち、及ぶだけ力を致し度」と、総理事続投の意欲を表明しつつも「ウヌボレ」を恐れ、「進退に付、肝要之場合はチョットヒントを御与へ下され」との見解を示した。明治37年(1904)以来16年もトップの座にある鈴木は、ワンマン経営の弊害をよく承知していた。よく承知しながらも、家長との信頼関係がこれを許さなかった。大正10年(1921)1月、鈴木は病気で倒れ、家長友純に辞職を希望したが、許可は下りなかった。大正11年(1922)3月再度病に倒れ、ようやく同年12月5日に許された。家長友純は、その感謝状の中で、「今日、我住友ヲシテ中外ニ重ヲ為スニ至ラシメタルモノ、誠ニ君ノ力ニ依ル。曩(さき)ニ、広瀬宰平翁ニ依テ成サレタル我家中興ノ緒業ハ、君ヲ得テ始テ大成セラレタリト謂ヘシ。」と述べている。鈴木はこれを見て安心したかのように同年12月25日に享年62で没した。

鈴木馬左也の墓所
鈴木馬左也の墓所
宮崎県高鍋市に一族と共に眠る。

鈴木の没後、川田順は「哲人讃」と題して彼を次のように評している。
前略)「『事業は人なり』、先生しばしば此の金言を口にし給へり。住友の師弟を育成薫陶することは、先生の義務にあらずして愉楽の如くなりき。有能の後進を用意することは、先生に取って事業の基盤を据うると同じく不可欠なりき」。
それから80年余、故郷高鍋市の墓所は、今も馬左也の遺徳を偲ぶ「宮泉会」(きゅうせんかい、宮崎近県の住友グループ各社の会)の人々によって守られている。

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