住友活機園 和館編

近代数寄屋建築の好例とされる和館の巧緻な技を通観します。

和館

和洋併置がたどりついた解

活機園の玄関はひとつである。和館と洋館を併置する構成は、当時の邸宅には珍しくはないが、その多くは和館と洋館が離れて配置されている。活機園のように二つが連続するものも散見されるが、多くは和館と洋館、それぞれが玄関を持ち、アプローチも二つ設けられていた。

活機園は、和館のそれだけである。明治以来、和と洋の建築が融合していく過程において、玄関の扱いもさまざまに変容していったが、活機園以前に玄関を和館だけとしたものは見当たらない。一方、活機園以降、大正から昭和にかけて作られた民家の多くは、和風の玄関から入り、玄関からすぐ折れた場所に洋室の応接間を備えていた。その奥には日常の生活スペースとして座敷と台所があるという造りで、様式として活機園の用いられ方と共通している。その意味で、活機園を和洋併置建築のひとつの到達点と見る向きもある。

和館を手がけた棟梁、二代目八木甚兵衛は、数寄屋造りの名手として知られる。明治期は、数寄屋造りが大きく開花した時期でもある。数寄屋造りは、鎌倉時代以来の伝統的な日本建築手法である書院造りが重んじた格式、様式を極力排し、軽妙な空間を造り上げることを目指したものだ、明治に入り、良木を用いた建物が数多く建てられるようになった。新時代の施主たちは、格式張った書院造りを嫌い、シンプルな数寄屋造りを好んだため、数寄屋造りの名工が多く登場。競うようにして各地に数寄屋が建てられた。

八木甚兵衛もその一人で、住友に関連する近代和風建築をいくつも手がけている。そのなかでも活機園は、もっともシンプルな意匠となっている。

玄関
玄関

装飾を排し良材をふんだんに使用

甚兵衛の意図がもっともよく表れているのが、この建物のハイライトでもある十畳間であろう。来客用の座敷として用いられていた部屋だが、正面の床には、長押(なげし)がなく、床脇は一文字板のみで、天袋も地袋も、違い棚もない。書院窓も組子障子とし、装飾を極力排している。

その分、目は自然と材へ向く。床の間の柱は、北山杉のしぼり丸太で、下部のみ若干の面取りが見られる。付書院の棚板は美しい玉杢(たまもく)で、木目を目で追うだけでも楽しい。圧巻は座敷縁側の軒桁に使われている杉丸太で、約11mもある。ふしも見えず、100年を経たいまも、軸棒にぶれがない。軒桁に使用した垂木も磨き丸太で、これだけの数をそろえるのには、さぞ苦労したに違いない。

伊庭貞剛が八木甚兵衛と交わした建築契約書のなかには「良質の材を用いること」の一文があり、甚兵衛は全国を駆け回って集めた材をこの和館に使った。材を製材することなく、自然のままの姿で使うには、確かな腕が求められるが、ごく当たり前のように狂いなく仕上げているところにこそ、名匠甚兵衛の真骨頂があるといえよう。

自然味にあふれる室内空間は、縁側の外に広がる苔や紅葉と呼応し、のびやかな自然美を描き出している。

外観
室内空間

四季の香りに包まれて

隣の六畳間は、大正11年(1922年)の新座敷増築まで、貞剛の居間で床の間と仏壇があった。毎朝ここで貞剛は、火鉢でオートミルを丹念に煮て、朝餉をしていたという。仏壇に献香礼拝の後、夏は洋館へ、冬はこの部屋で終日過ごすのが常だった。

廊下を進んだ突き当たりにあるのが、伊庭貞剛の次男簡一が晩年の父のために設計した新座敷である。床の間と仏壇のある六畳は、九枚の畳からなる畳廊下で囲まれ、庭へと突き出すように配されている。二面で庭と接するこの部屋は、活機園でもっとも開放的な空間といえるだろう。縁側には、当時としては非常にめずらしい複数の石をセメントで固めた沓脱石が置かれている。

床の間には花頭窓がしつらえられるなど、甚兵衛作の座敷に比べ、やや装飾性が加えられているが、天井板の縄文杉(屋久杉の古材)など、ここにも良材がふんだんに使用されている。

寒さが苦手だった父のために簡一が考えついたのであろうか、和室には珍しい暖炉がしつらえられている。貞剛は、晩年、ここから見る月をことのほか好んだという。

和室
庭
六畳間

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