楠木正成像 前編

精彩を放つ騎馬武者像 明治美術家の意気をいまに伝える

楠木正成像

楠木正成像

所在地
東京都千代田区皇居外苑1-1
アクセス
東京メトロ千代田線二重橋駅 2番、6番出口すぐ
問い合わせ
03-3213-0095(環境省 皇居外苑管理事務所)

二重橋を臨む巨像

皇居前広場に勇姿を見せるブロンズ製の騎馬像。忠臣の誉れ高い鎌倉時代末期の武将、楠木正成の姿を映し出したものである。緊迫感あふれる表情や馬の血管まで精緻に描き出した意匠、観光名所である二重橋を臨む設置場所、かつては紙幣のデザインにも採用されたことなどもあり、国内でもっとも名高い銅像のひとつである。
本体の高さは約4メートル。花崗岩の台座を含めると8メートルに及ぶ堂々たる姿で、上野公園の西郷隆盛像、靖国神社の大村益次郎像と並び、「東京の三大銅像」の一つに数えられている。日本の具足を帯びた代表的な武者像として海外の旅行ガイドブックに掲載されることも多く、足を留めて見上げる外国人観光客の姿が引きも切らない。

皇居外苑の木立を背景に青く光る楠木正成像
強く手綱を引き、駒の勢いを抑え、やや頭を下げて、拝礼しようとする楠木正成。太平記の記述に題を求めた。
残されている肖像は、いずれも骨相が異なり、どれを採用するかで意見が割れ、知将を表現するものとして細面の容貌に決定された。
馬は脚、尾など複数のパーツにわけて分解鋳造された。極めて丁寧に仕上げられており、つなぎ目はほとんどわからない。
どのような馬にするかでも議論があった。専門家に意見を求め、最終的に各産地の馬の長所をとって、理想的な日本馬の姿を描いた。
装束の一つひとつにいたるまで詳しい時代考証を加え、楠木正成の姿を現代に甦らせた。

東京美術学校の総力を結集

この楠木正成像は、別子銅山開坑200周年事業として住友から宮内庁に献納されものだ。明治22年(1889年)末、当時の住友総理人の広瀬宰平(初代総理事)は、翌年に別子銅山開坑200周年を控え、住友家13代当主住友友忠と相談し、別子銅を用いて銅像を製作し献納することを決めた。
製作は、岡倉天心が校長を務めていた東京美術学校(現在の東京藝術大学の前身)に依頼。当時、東京美術学校には塑造科はなく、原型は木彫を使用する時代だったため、同校の木彫科教授であった高村光雲が主任となり、指揮をとった。翌年、東京美術学校は後に製作担当者となる3人を次々と教師として採用。高村光雲は頭部を担当し、山田鬼斎と石川光明が身体・甲冑部などを、後藤貞行が馬の製作を担当した。
図案は、教員、学生を通して一般から広く募集し、学生岡倉秋水のものが選ばれたが、そこからの製作は一筋縄ではいかなかった。楠木正成の肖像は20数点が残されていたが、ことごとく骨相が異なり、どれをよりどころにすべきか決め手がない。結局、光雲は、知謀に優れた軍略家の相を表すことに重点を置いて、細面の容貌を採用した。
甲冑は歴史画家で同校の教授だった川崎千虎(ちとら)が考証を担当。楠木正成ゆかりの寺社を巡り、遺物と称される品をくまなく探究し、綿密な調査を加えて史実を補充し図案を完成させた。
馬を担当した後藤は、若い頃に騎馬術を習い、軍馬局で種馬について研究した後、理想的な馬の姿を描きたいと日本画、洋画を習った経歴の持ち主で、それでも飽き足らず彫刻を覚えたいと光雲のもとを訪れた人物。その才を見いだした光雲が、馬の製作担当に推挙した。巨大な馬像に挑んだ後藤は、並外れた熱意を見せた。専門の知識に加え、軍馬局から馬の屍体をもらい受けて解剖したり、東北を巡り馬の写真を多数撮影して回り、繰り返し模型を作成して細部を煮詰めていった。
こうして東京美術学校の木彫科を総動員し、約3年をかけて木彫の原型が完成。みなぎる生気は、見る人を大いに驚かせたと伝えられている。

日本初の分解鋳造

楠木正成像 台座 銘文
台座の銘文には、住友15代友純(住友家養嗣子、徳大寺実則・西園寺公望の実弟)の名で「亡兄友忠、深く国恩を感じ、別子銅を用いて楠木正成像を鋳造し、天皇陛下の御前に献納したい」と記されている。

明治26年(1893年)、木型は鋳造に引き継がれた。担当したのは助教授の岡崎雪聲(せっせい)。パリ万博(1889年)に出品した作品が二等を射止めるなど、すでに鋳造師として名を成してはいたが、高さ4メートルを超え、袖や太刀など付属品の多い像の鋳造は、全身鋳造、あるいは下から段々に鋳上げていく「登り鋳」と呼ばれる従来の日本の鋳造法では不可能で、新たな鋳造法を考案する必要があった。
折しも、シカゴで万国博覧会が開かれ、世界各国から美術工芸品が出品されるとの話を耳にした岡崎は、自費で渡米し、博覧会場を見て回った。展示されている多くの大作は、外観からすると全身鋳造で製作されたものと思われ、その技術力の高さに、ただ驚嘆するばかりであったという。しかし、博覧会も終盤に近づいたある日、たまたま窓から差す光の加減で、像面にわずかな継ぎ目のあるのが目に留まった。小躍りしながら他の像を見ると、やはり継ぎ目が認められ、全身鋳造と思っていた像の多くが、分解鋳造であることを見抜いた。

帰国した岡崎は、約1年をかけて馬を胴、首、四脚、尾の7つのパーツに分けて分解鋳造し、従来の鋳金法も組み合わせて巨大な像を作り上げていった。我が国で初めての分解鋳造法による銅像である。
研磨、色付けなどの仕上げにさらに2年を費やし、明治29年(1896年)9月、銅像が完成。明治33年(1900年)、台座の完成を待ち、ついに楠木正成像は二重橋外に竣工したのである。

伝統美術の保護・育成を目指して

広瀬が200年記念事業として彫刻の献納を発案し、東京美術学校に依頼した背景には、当時の日本の美術工芸が置かれていた危機的な状況がある。
明治維新以来、文化の面でも日本は急速に欧化を進めた。その反動として伝統的な美術工芸は軽視される傾向があった。海外で日本画などが高く評価され、ジャポニズムの影響を受けた画家が大勢誕生していたにも拘わらず、日本国内でその価値を認める声は少なく、日本画家や鋳造師の仕事も減る一方だった。
極端な欧化主義は、あだ花とされる鹿鳴館時代を生むが、その反省に立ち、明治20年(1887年)に設立されたのが東京美術学校だった。同校は日本画家らを積極的に教師として雇用。明治22年(1889年)には、専修科に日本画、木彫、金工・漆工を置き、日本固有美術の振興発揚を明確に目標に据えた。
ちょうどこの年、広瀬はパリ万国博覧会を訪れ、日本から粗悪な美術・工芸品などが輸出されているのを目にし、日本文化を再興する必要性を痛感。帰国後、200周年記念事業として東京美術学校に銅像の製作を依頼することで、日本固有の美術の保護・育成を目指したのである。
周年事業としては、楠木正成像のほかに、総理大臣・松方正義銅像、記念品の「別子銅山図版画」、「銅鏡型文鎮」の製作も同校に依頼。その後も日本銀行総裁の川田小一郎銅像、広瀬宰平の銅像、小型の楠木正成像6体を次々に発注し、住友は伝統美術再興の一端を担うこととなった。

東京藝術大学 理事・教授 北郷 悟
監修者
東京藝術大学 理事・教授 北郷 悟
東京造形大学美術学科彫刻専攻 卒業、1979年東京藝術大学大学院美術研究科修士課程彫刻専攻 修了。新潟大学教育学部助教授、東京藝術大学美術学部彫刻科助教授などを経て2006年から同教授。2009年から同理事・副学長。2013年から同理事・教授。1996年から1997年まで文化庁在外研修員としてイタリア、ブレラアカデミア美術学校に在籍。

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