清風荘 人物編

清風荘を整備した住友吉左衞門友純と、ここを住まいとした西園寺公望。二人の知られざる物語を紹介します。

西園寺公望
第12代、14代 内閣総理大臣
西園寺公望
住友吉左衛門友純
第15代住友家当主 住友吉左衛門友純

清風館に育った兄弟

清風荘は、もともと天保3年(1832年)に公家の徳大寺実堅(さねかた)が徳大寺家の別邸として建築した建物である。当時は清風館という名で、一帯は、畑地、竹薮がひろがっている洛外の地だったといわれる。実堅はここで楽焼きなどを楽しんでいたという。

清風館の完成からしばらくの後、徳大寺家は多くの男子に恵まれた。
実堅の孫にあたり、徳大寺家を継いだ長男の実則(さねつね:1840-1919)は、明治維新後に宮内官僚となり、明治天皇の侍従長を務めた人物だ。

九つ年の離れた次男は、幼名を美丸(よしまる)といったが、2歳の年に同じ精華家の西園寺家の養子となった。この人物こそ、後の清風荘の主で、第12代、14代内閣総理大臣を務めた西園寺公望(1849-1940)である。

公望から16年遅れて清風館で誕生した四男の隆麿(たかまろ)は、長じて住友家に養嗣子として迎えられた。第十五代住友家当主住友吉左衛門友純(号・春翠:1865-1926)その人である。

西園寺公望も住友友純も、幼い時は徳大寺家の若君として清風館で遊んだ記憶をもつ。父である徳大寺公純は、幼い公望を馬に乗せて、清風館の庭を巡り歩いていたという。

3歳を待たず徳大寺家を離れた公望だったが、その年の夏、養父の右近衛中将西園寺師季(もろすえ)が死去。物心もつかないうちに西園寺家を継ぐことになった。2歳で従五位下に叙せられ、3歳で侍従に、8歳になるころには元服して昇殿を許され右権少将に任じられた。

こうして西園寺家の当主として、実家徳大寺家で過ごすことも多かった。兄とともに古学の講義を受け、10歳の年の差があるのに、その理解度を競い合うほど勝ち気で聡明だったという。

兄への憧れを胸に

一方、友純は、20歳になるまで父の膝下で過ごした。徳大寺家の学風に則り、漢学、国学、和歌を学ぶ。茶道に関しては、祖父、徳大寺実堅と父公純が裏千家十一世玄々斎宗室門下四天王の一人、深津宗味に師事していた影響で、早くから茶の湯の手ほどきを受けていたという。友純は、数寄者、風流人として和風文化の近代における興隆に、大きな影響を及ぼした、いわば近代和風文化の巨頭として数えられるが、その源流が徳大寺家における教養教育にあったことは、疑う余地がない。

16の年の差があったため、公望と友純が一緒に遊ぶことはあまりなかっただろうが、友純は、兄公望を強く慕っていたようだ。18歳で維新に身を投じ、19歳で新潟府知事に任命、21歳でフランス留学に旅立つなど兄の華々しい活躍は、清風館で暮らす幼い友純の目にさぞかし眩しく映っていただろう。

思い出の地に

思い出の地

29歳で住友家へ入家していた友純は、明治40年(1907年)、徳大寺家から清風館を買い受ける。そして、ここを兄公望の京都控邸とすることを兄にもちかけた。兄弟にとっては、幼い日の思い出の地。公望は大いに喜んだに違いない。

明治以降、首都が京都から東京に移ってからも、京都に屋敷を構えることは実業家、政治家にとって重要なステータス・シンボルであった。ましてや公家出身で、政治家として当時第一次西園寺内閣を束ねる総理大臣であった公望にとって、それは自身の証といってもよいものだった。

二人は相談して八木甚兵衛に建物の普請を、小川治兵衛に庭の造営を任せることにしたが、公望自身が建材をはじめ、設計や、庭石の配置にも細かく指示を出していたという。そこに友純の文人趣味も加わり、新しい時代の担い手にふさわしい気品と、落ち着きを備えた空間ができあがった。

ひとときのやすらぎ

公望には生涯4つの邸宅があった。東京の駿河台邸、静岡県の興津別邸(坐漁荘)と御殿場別邸、そして清風荘である。

当時の元老や実業家は、京都の屋敷をしばしば政治の舞台として使っていたが、公望は清風荘をもっぱらやすらぎの地と見ていたようだ。

首相を退いた後も、元老として後継首相を実質的に決定する権限を背景に、国政に重きをなしていた公望は、日ごろは温暖な静岡県の興津別邸で養生しながら政治を眺め、ひとたび国家の危機とみるや東京に出向き、昭和天皇らに助言を与えた。興津にも若い政治家らが間を置くことなくご意見伺いに訪れ、心から休まることはなかったろう。

京都へ赴くのは、春秋の季節のよいときで、清風荘に滞在する間は、あまり政治家を招くこともせず、隣接する京都大学の東洋史学者内藤湖南や華道去風流家元の西川一草亭らと語り合うのを楽しんだという。アカデミズムと文人趣味を好んだ公望らしいエピソードである。

昭和15年(1940年)11月、公望は90歳でその生涯を閉じた。近代和風の粋を誇った清風荘は、主を失ってしばらく、木々のざわめきと鳥のさえずりだけが聞こえていたが、昭和19年、公望が心を寄せていた京都帝国大学に住友家から寄贈された。

清風荘 監修者

尼﨑 博正
尼﨑 博正 Amasaki Hiromasa
京都造形芸術大学教授。農学博士(京都大学)。日本庭園・歴史遺産研究センター所長。1946年生まれ。1968年京都大学農学部卒業。造園の現場を経て、庭園研究の道へ。京都芸術短期大学学長、京都造形芸術大学副学長を歴任。全国で文化財庭園の保存修復に携わるとともに、作庭家としても活躍。1992年日本造園学会賞、2007年京都府文化賞功労賞受賞。著書に『七代目小川治兵衛』(ミネルヴァ書房)『植治の庭―小川治兵衛の世界』(淡交社)、『市中の山居 尼﨑博正作庭集』(淡交社)他、多数。
矢ケ崎 善太郎
矢ケ崎 善太郎 Yagasaki Zentaro
京都工芸繊維大学准教授。1958年生まれ。1983年京都工芸繊維大学工芸学部建築学科卒業。1985年同大学院工芸科学研究科修了。日本建築史が専門で、数寄空間の史的展開や数寄屋大工と庭師の技術的系譜に詳しい。歴史的建造物の復元にも多数携わる。著書に『茶道学大系六 茶室・露地』(共著/淡交社)、『図説 建築の歴史』(共編著/学芸出版社)、『茶譜』(共編著/思文閣出版)、『珠玉の数寄屋 臥龍山荘』(監修/大洲市)など多数。
高橋 康夫
高橋 康夫 Takahashi Yasuo
花園大学教授。京都大学名誉教授。1946年生まれ。1969年京都大学工学部建築学科卒業、1971年、同大学院修士課程修了、京都大学工学部教授、同大学院工学研究科教授を経て、2010年より花園大学文学部教授。建築史家で、日本都市史、日本建築史が専門。1994年、日本建築学会賞、2002年、建築史学会賞受賞。著書に『京町家・千年のあゆみ 都にいきづく住まいの原型』(学芸出版社)、『洛中洛外 環境文化の中世史』(平凡社)など多数。
末岡 照啓
末岡 照啓 Sueoka Teruaki
住友史料館副館長。1955年長崎県生まれ。1978年國學院大學文学部史学科卒。同年より住友修史室(史料館の前身)に勤務し、主席研究員を経て現在に至る。1997年より新居浜市広瀬歴史記念館名誉館長・特別顧問を兼務。旧広瀬邸・住友活機園・別子銅山産業遺産の文化財報告書等で歴史的意義を明示。住友の歴史に精通し、『住友の歴史』(共著 思文閣出版)『住友別子鉱山史』(共著 住友金属鉱山(株))『近世の環境と開発』(共編著 思文閣出版)の他多数。

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