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住友「歴史探訪」

第3回 京都編 その3  住友政友と蘇我理右衛門の絆第3回 京都編 その3 住友政友と蘇我理右衛門の絆

反魂丹の看板

僧籍を離れ、在野の一宗教家となった住友初代・政友(文殊院)は「富士屋嘉久」の名で商いを始めた。屋号は「富士屋」で、薬と書籍を扱っていた。店舗のあった場所は、現在の市営地下鉄四条駅、阪急烏丸駅から程近い繁華街になっている。
当時の面影を偲ぶことはできないが、唯一残っているのが薬種の一つ万病薬で知られる「反魂丹」(はんごんたん)の木製看板で、政友が出した法典「往生要集」などと一緒に、市内の住友歴史展示館に展示されている。
政友は生涯、信仰生活から外れようとしなかった。仏門に入り、しかも高僧まで務めた上げた政友が宗教への拘りがあっても何ら不思議ではない。しかしそれだけだろうか。
末岡照啓住友史料館副館長は、こう語る。
「文殊院があえて“員外沙門”と言ったのは、いかにも僧侶出身者らしい処世の方便だが、あえてそうしたのは、及意上人空源への追慕の念にほかならないのです。」
信奉していた涅槃宗が幕府によって解宗、統合され消滅の憂き目に遭った。開祖した及意上人の悔しさと無念さを思うと、涅槃宗の正しい教義を戦乱で悩む多くの庶民に宣布し、布教活動を続けるのが己の任とした。それが政友の真の姿ではなかったろうか。
そのような不屈な精神と幾多の法難にも立ち向かいながら[正直・慈愛・清浄]を説く政友を、信徒の一人として心から崇拝し、精神の支柱として陰で支えたのが、蘇我理右衛門という銅職人だった。

この人物こそ、住友の精神の祖となる政友とともに、技術の先師として、今日の住友の礎を築いた人物である。政友と理右衛門の二人は、涅槃宗を通じて絆を深めたが、とくに政友の姉が理右衛門に嫁いだことで一層縁が強まり、年が離れていたにもかかわらず“義兄弟”の間柄となった。そして、政友の長男が病死、住友家の家督が危うくなると、理右衛門は長男・理兵衛友以を養子に出し、政友は跡継ぎとして友以を住友第二代に据えた。
政友の晩年は、嵯峨野の清涼寺の「雙軒庵」に隠棲、和歌を詠んだり、門弟達や二代・友以との書状を交わすなど、自らの境地を告げていたという。第1回で取り上げた、現在でも住友の事業精神の基になっている「文殊院旨意書」も、ここでしたためている。
そして最後まで宗教家としてあり続けた政友が、没する二年ほど前、門弟に宛てた遺文。
「…心もほれ、目もかすミ、朝暮之礼拝も不自由の躯ニ候、生死病痛ハ人間の定りの覚悟に候(中略)」(末岡照啓氏=企業のDNA、文殊院の遺誡より)。「極楽は 日ごとに近くなりにける…」(同)。死期を悟る文章である。 慶安五年(一六五二)、正友は六十八年の生涯を閉じた。

次回は、住友の事業の基礎を築いた蘇我理右衛門を追ってみる。(了)

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