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住友「歴史探訪」

第4回 京都編 その4  “南蛮吹き”の技術を開発した蘇我理右衛門とは…第4回 京都編 その4 “南蛮吹き”の技術を開発した蘇我理右衛門とは…

十六世紀後半、わずか十九歳の青年が、「南蛮吹き」という技術を持ち込み、時の天下人・秀吉や家康に精銅を納めるなど、京都に数々の史蹟を残した。それが、住友初代・政友と共に住友繁栄の礎を築いた、銅職人・蘇我理右衛門である。

京都東山一帯に響く方広寺(天台宗)の梵鐘の音。その響きに耳を傾けるとき、四百年前の京都で「南蛮吹き」の技術をもって活躍した蘇我理右衛門の息吹を感じられる。
重さ八十二トン。大阪冬の陣で豊臣氏が滅亡する原因となった「国家安康」「君臣豊楽」の銘文が刻まれる大きな梵鐘からは、豊臣・徳川の興亡の歴史がしのばれ、今も重厚で優雅な音を響かせている。 政友の「文殊院由来書」などによると、方広寺は豊臣秀吉が創建し、梵鐘とともに大仏も建立した。しかし十七世紀後半の大地震で大仏は破損。寺院は秀吉の子、秀頼によって再興されたが、大仏は銭の材料として鋳潰されたと伝えられている。
だが、秀吉没後の一六〇二年(慶長七)、徳川家康の命によって金銅の大仏として再建され、同寺院の持仏堂に鎮座し、訪れる参詣者を優しい眼差しで迎えている。
特筆すべきは、時の天下人が国家護持を念じて建立した寺の梵鐘や大仏の造成に理右衛門が自ら精錬した銅を納入していること。これは京都に於ける理右衛門の当時の地位を考える上で、見逃せない史蹟と言えるだろう。

理右衛門は大阪(一説には泉州堺)で生まれる。一五九〇年(天正十八)、わずか十九歳の若さで“上洛”。現在の京都鴨川に架かる五条大橋の近く、寺町松原下ル西側に、銅の精錬と銅細工を事業とする屋号「泉屋」を起こした。
同時期は、秀吉が悲願の天下統一を成し遂げた頃と重なり、京都の町は、今の短冊型の街区に変わるなど都市改造の真っ只中、人口も増えて活気に溢れた。高い技術を身につけていた理右衛門は、「南蛮吹き」の新技術をもとに、秀吉の推し進める新都市造りに、壮大な夢を託していたに違いない。

しかし、理右衛門がここに至るまでの道程は平坦ではなかった。末岡照啓 住友史料館副館長の説明でも分かる。
「理右衛門の習得した銀銅吹き分けの新技術は、南蛮人か明国人か、とにかく外国人から習ったようですが、それも直接手ほどきを受けて伝授されたのではなく、銅吹きの原理を聞いた程度だったはずです」
つまり理右衛門は、上洛前の十代の歳で、言葉も分からず、誰の指南も受けず“独学”に近い状態で「南蛮吹き」を編み出したことになる。
当時は、戦国諸大名の勧奨で、金銀銅山の開発は盛んだったが、冶金技術は手探りの時代。特に銅鉱石の中に含有される金銀を抜き出す技術は日本にはなく、銅は金銀を含んだまま使用されていた。
それを理右衛門が「南蛮吹き」を開発したことで銅と銀の吹き分けに成功。一大変革をもたらすことになった。
「これは、わが国の鉱工業史上から見ても画期的な事実ばかりでなく、経済史上においても注目すべき事柄です」(末岡副館長)
理右衛門は六十五歳で生涯を閉じるまで「南蛮吹き」を普及させ、義弟の政友とともに、二代目友以を指導、育成しながら、京から大阪へ住友の事業拡大への道を開いた。

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