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住友の歴史と事業精神住友の歴史と事業精神

住友「歴史探訪」

第6回 大阪編 その2 銅山経営へ、そして別子銅山の発見第6回 大阪編 その2 銅山経営へ、そして別子銅山の発見

「銅山経営とは、個人企業のためではなく国家のための仕事である」 これは江戸期からの住友家の考え方である。

京都から大阪に進出した住友2代目・友以は、蘇我理右衛門の助言などを参考に事業拡大をはかり成功させた。東西横堀川と道頓堀、長堀に囲まれた「島之内」に大規模な銅吹き所(精錬所)を開設した。この銅吹き所は、さらに拡張され元禄三年(一六九〇)には本店や住友本家も同地区に移転し、近世住友の本拠となった。
最盛期には面積七百五十坪(約二五〇〇平方メートル)、百数十人の職人たちが働き、日本を代表する精錬所となった。一方、友以は大阪の一万人ともいわれる銅吹き業者に非常に好意を持たれた。大阪の同業者たちに“南蛮吹き”の秘法を惜しみなく伝授したことが背景にあるが、“南蛮吹きの宗家”としての特別な地位を占めるようになったのは容易に想像できる。

そして、精錬所は、当時日本を代表する施設とあって、幕府要人はもとより長崎出島のオランダ商館長らが江戸城参勤の途中、しばしば訪れたと言われる。オランダ医学などの紹介で有名なシーボルトも随員として訪れたという。こうしたことがきっかけでオランダ、中国などとの銅交易が増し、同時に外商で得た巨額資金を元に糸、反物類や砂糖、薬種その他の輸入品の販売まで手がけ、貿易商としての才能も発揮した。

だが友以は、「もっと銅が採れる山があったら…」
活況に満ちた事業光景を眺めながらも、満ち足りなさを感じ取っていた。「産銅の山が要る」という嘱望の念は、五十六歳で没するまで抱き続け、奥羽地方での銅山開発が活発化するにつれ、焦りにも似たものを感じていた。これは銅職人として生まれ育った血筋と、銅が国を動かすと言う強い“信念”があったからではないだろうか。

銅山を持つ。その夢は住友三代目となる長男・友信の手によってようやく叶えられたが、三十九歳の壮年期で隠居。後を継いだ息子・友芳(四代目)が銅山開発に尽力。天和三年(一六八一)、備中(岡山)の吉岡銅山の採掘に着手したほか、出羽(山形)の最上・幸生銅山の経営を手がけ、銅吹き、鉱山経営にも進出した。だが手間と経費が嵩み、経営は苦難の一途をたどった。

別子銅山

元禄三年(一六九〇)、住友家に大きな転機が訪れた。伊予(愛媛県)の立川銅山(現在の別子銅山の北側半分)で働く稼人(かせぎにん)によって、裏手の人跡未踏の南側斜面に「銅の鉱脈が突き出た露頭がある」との情報がもたらされた。調査の結果、これこそが産銅の山・別子銅山である。ここから繁栄と挫折が繰り返され、数奇のドラマを乗り越えながら“銅の住友”の基盤を、そして今日の住友の礎を築いたのが激動の山・別子銅山である。

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