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住友「歴史探訪」

第8回 新居浜編 その2 別子銅山と広瀬宰平第8回 新居浜編 その2 別子銅山と広瀬宰平

海抜千三百メートルの山を越え、斜めに深く長く帯状に貫く鉱床は、世界でも稀な大鉱床といわれる。それが別子銅山だ。

「五十七年、夢の飛ぶがごとし」住友家総理代人・広瀬宰平は、自著「半世物語」の中で、半世紀以上にわたり守り抜いた別子銅山を、こう記した。
元禄四年(一六九一)から昭和四十八年(一九七三)閉山までの約三百年の間に、推定で約六十五万トンの銅を産み出した“宝の山”である。

この間、営々と掘りつづけた総坑道の延長距離は約七百キロ。掘りも掘ったりの距離だが、今の東京から岡山辺りまでの距離に匹敵するのだから凄い。採掘現場も山の底を掘り抜き、海面下約千メートルに達した。余りにも掘り過ぎたため、坑道深化による地熱の上昇(摂氏五二度)と地圧による坑道の崩壊などの危険性が生じたため、昭和四十八年に採掘を中止。そのまま閉山へと繋がった。

長い年月を掛け、鉱夫たちが交代しながらノミを振るう手掘りから、明治期の“盛山棒(せいざんぼう)”という鏨(たがね=ノミに似た工具)を使って岩盤に穴を明け、火薬を装填して破砕する坑道掘り。これが鉱夫たちが残した足跡であり、作業の証だ。

その銅山に登る。山には古い時代の死者たちが多数葬られている。不慮の大火や水害などに遭遇した犠牲者を祀る供養塔にぶつかった。ガイドを務める小笠原勇機さん(六六)は、そのつど「ここに差し掛かると、必ずお線香を供えます。登山する方にも供えて貰っています」と線香をくゆらせ真っ先に手を合わせ、登山者もそれに続いた。  小笠原さんの説明を聞きながら、かつては北の方向に流れる地層に沿って、坑道を掘り進める男たちがいて、採掘された銅鉱石を運ぶ男女がいた。その息づかいはもはや、深い緑の樹木に覆われ消えている。しかし、間歩(まぶ=坑道)跡が幾つも残されている。



息が上がる急坂の登山路を何度か立ち止まる内、目の前に大きな坑口が迫った。元禄四年(一六九一)に掘り進められた「歓喜坑」。現在はその隣にある二番目に掘られた「歓東坑」ともに遺跡として保存されている。「このふたつの坑道を中心に、江戸時代を通じて銅山の採鉱本拠地を形成されたと言われる。
歓喜坑の上の方に「山方」と呼ばれる坑内で働いていた人々の集落があり、下流の小足谷には当時を偲ぶ味噌や醤油、酒を作る醸造所、そして子供らの学び舎(小学校)の遺跡もあった。

約三百年にわたる長い間、住友という一企業によって採鉱された鉱山は世界にも例がなく、近代遺産としてその稼行の跡を別子銅山は今に伝えている。
そこには、苦難の時期に怯む事無く、果敢に立ち向かった別子銅山の支配人、後の初代総理代人・広瀬宰平の存在を忘れることはできない。

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