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住友「歴史探訪」

第9回 新居浜編 その3 別子銅山の危機第9回 新居浜編 その3 別子銅山の危機

広瀬宰平

別子銅山を売る! そんな衝撃的な話が浮上したとき、猛然と反対、涙してその非を説きながら撤回させたのが、別子の支配人(後、総理人)広瀬宰平である。

徳川幕府が崩壊、明治維新の激動期に入るや住友家も最大のピンチを迎えた。諸大名に命ぜられ用立てていた御用金の回収が不能となり、また関係の深い各藩の藩札も暴落するなど、住友家の屋台骨が大揺れの事態に陥った。
累代の家宝・什器類まで抵当に入れ、銭佐(銭屋佐兵衛)両替店から千両程の融通を受け、ようやく急場を凌ぐという窮状だった。そして最後の策として上がったのが重荷になっていた別子銅山の売却案であった。

外からの軋轢もあった。慶応四年(一八六ハ)二月、幕府領だった別子銅山を土佐藩が接収、新政府の管理下に置こうとし、薩摩藩も大阪本店の銅蔵を封印した。広瀬はこれらの動きにも、何ら臆することなく力説、売却案を阻止した。

広瀬の自伝『半世物語』によると、土佐藩の隊士・川田元右衛門(後の川田小一郎日本銀行総裁)に面会した広瀬は「別子はなるほど幕領ではあるが、銅山は住友家の自力経営であるばかりではなく、別子の事業を差し押さえることは国家の大計に反する」
こう主張して認めさせ、別子稼行継続の許可を得た上、大阪本店の銅蔵の封印を解かせたという。激動期には激動期にふさわしい人物として、広瀬は登場したが、一方の川田も広瀬の説得に共鳴した背景には、新時代を見通す先見の明があったのだろう。

だが、広瀬の前にはまだ大仕事が待ち受けており、別子銅山の経営建て直しなどが迫られていた。
この難局をどう打開するか。広瀬がまず掲げた方策は経営の近代化だ。明治四年には製銅販売の神戸出店(後に支店と改称)を開設して、外国商館との直取引の道を開く。そして銅吹き所を大阪から別子山ろくの立川山村に移し、作業などの合理化をはかった。

だが、改革の第一の目標は産銅の増加である。それには別子銅山の採鉱や製錬法の洋式化をはからねばならない。明治七年(一八七四)フランス人技師ルイ・ラロックを雇い、銅山の近代化計画を指示した。それが完成すると、外国人技師指導なしでは開発は進まない、というラロックの提言を断り、日本人技師を養成して、別子の開発を進めようとし、日本人店員二人をフランスの鉱山学校に留学させた。
鉱山開発技術を日本人の手で高めることで、別子の経営の安定を図るという信念に基づくものである。

銅山と新居浜市の海岸部を結ぶ運搬経路を作り、やがて牛車道が蒸気機関車の走る鉱山鉄道へ、と広瀬の描く近代化路線は進化を遂げていくのだった。

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