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住友「歴史探訪」

第11回 新居浜編 その5 瀬戸内海に浮かぶ四阪島を訪れる第11回 新居浜編 その5 瀬戸内海に浮かぶ四阪島を訪れる

瀬戸内海にポツンと浮かぶ島に製錬所のキューポラと巨大な煙突。亜硫酸ガスの煙害と立ち向かいながら、銅の製錬を続けた。そこには多くの島民の生活と文化が存在し、産業遺産が色濃く残る近代住友の歴史の島、四阪島。
新居浜の港から約1時間、住友金属鉱山の高速専用船「みのしま」に乗船、青く澄んだ瀬戸内の海を進み、やがて黒色で垂直に切り立つ岸壁近くの桟橋に降り立った。

「公害は、公害そのものをなくすより他に方法は無い」―こう言って、煙害を根絶する目的で明治三十八年一月、この島に製錬所を移したのが、別子銅山の支配人(後の二代総理事)伊庭貞剛だった。
当時は、公害という言葉はなかったが、別子山中から、山麓の山根、新居浜港地区へ製錬所を移転すると、農作物や山麓の樹木が枯死するという問題が深刻化。新居浜市の北方二十キロほど離れた無人島だった島を買取り、移設したのがこの四阪島だった。

四阪島は美濃島、家ノ島、明神島、鼠島の四つの島を合わせた総称で、隣接した家ノ島と美濃島の間を埋め立て、陸続きにして製錬所を建設したものだ。当時のねらいは、製錬所の煙突から発煙する亜硫酸ガスを、海上で拡散するはずだったが、予想に反して風に乗り、そのまま四国本土まで流れてしまった。そのため農作物の被害や健康被害が再び起こり、農民たちの激しい抗議運動などが起きた。こうした苦難の道のりは昭和十四年、製錬過程で排出される亜硫酸ガスをゼロパーセントにする中和工場(硫煙処理装置)の完成まで続いた。



住友が明治以来、公害対策に莫大な研究費をつぎ込み、実験を繰り返してきた成果がやっと実を結んだ。世界中の銅製錬工場が同じ問題を抱えていたが、亜硫酸ガスの排出をゼロにすることはできないでいた。それを経営理念の一つとして、住友の綱領のように掲げ、実践してきたのが伊庭貞剛と彼に続く歴代総理事だったわけだ。

しかし四阪島は、公害と向き合うだけでなく、別子銅山の製錬所として大きく発展し、人口は大正時代には五千五百人を超え、昭和三十年代にも四千人近くいた。島内を歩いてみると、最盛期には一千戸あった家は、ほとんど姿を消しているが、残された階段状の社宅の一部の表札に、かすかに苗字が読み取れるものがあった。また朽ち果てた劇場の建物、わずかに原形を留める娯楽場と海水を使ったという大浴場に商店街・・・。
そして工作室や児童会室などの三教室が残された四阪島小学校。工場で働く人々のために、住友が造った学び舎だが、校庭の片隅には、ツタやヤツデに覆われたジャングルジムが今もある。廊下と校舎は、大きい丸太で支えられているが傾きが激しく、見るからに危なっかしい。元島民らの保存を望む強い声に押され「出来る限りの保存に努めています」と、ガイド役の住友金属鉱山社員が説明した。

現在は新居浜港から船で毎朝、通勤する住友金属鉱山の五十人ほどの社員以外、島民はゼロ。植林で深い緑も戻った四阪島。一世紀に及ぶ歴史が息づくこの島は、瀬戸の穏やかな海と澄み切った青空に囲まれ、静かに浮かんでいる。 

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