1. ホーム
  2. 住友の歴史と事業精神:住友「歴史探訪」
  3. 第17回 大阪・新居浜編 その2

住友の歴史と事業精神住友の歴史と事業精神

住友「歴史探訪」

第17回 大阪・新居浜編 その2 別子の大災害と植林の繋がり第17回 大阪・新居浜編 その2 別子の大災害と植林の繋がり

鈴木馬左也が官界(農商務省参事官)を去り、住友の事業に加わったのは、三十六歳の働き盛りの時だった。
住友大阪本店の副支配人を務めた後、三年後の明治三十二年(一八九九)一月、別子鉱業所支配人として別子銅山に赴いた。ところが、それから僅か七ヶ月後の八月、別子が未曾有の暴風雨による大災害に襲われた。
鉱山施設は全て崩壊し、山で働く人たちや家族、子供ら五百十四人の尊い命が奪われた。

馬左也は、そんな惨憺たる災害現場に立ち、総責任者として善後策に陣頭指揮を執り、別子鉱業所の業務を新居浜惣開(そうびらき)製錬所内に移設、新居浜を鉱業所本部として再スタートを切った。

馬左也はその一方で、「今回の風水大災害の原因は、銅製錬による山林の濫伐である」ととらえられていた。そして「鉱山は国土を損する仕事故、国土を護ってゆく仕事をする必要がある。云ひ換ふれば、罪滅ぼしの為に……、それに山林事業が最も適当」と述べたという。

末岡照啓住友史料館副館長はこんな説明をされている。 「馬左也は、災害現場の光景を見て、災害の恐ろしさをまざまざと感じ取った。ましてその要因が、山を削り壊し、樹林の濫伐など自然破壊にあるとしている。ですから伊庭総理事と同じように、鉱山で傷めた山に植林して元の自然豊かな山に戻す。そうした考えに立って決意したんですね」

だがもう一つ、馬左也を植林活動に駆り立てた理由として、末岡氏はこう語った。「今、日本は東日本大震災に見舞われ、さまざまな国難に直面している。日本全国ばかりか、世界中から義援金や支援物資が届けられるなど援助の手が差し伸べられている。実は、別子の大災害の時も、全国から義援金やら毛布などの支援物資が多く届けられているんです。日本人は昔から被災者や困窮者に対する助け合い精神があるんです。ですから馬左也も、こうした援助や支援に応え、お礼に報いるためにも、大造林計画を押し進めた。住友としての罪滅ぼし…という気持も強く働いたようです」

宮崎県椎葉の美林

大塚小郎(林業所主任)宛て馬左也書状(大正9年)
「林業ハ国家の大計ニ干与する」と記している。
写真提供 住友史料館


馬左也の大造林計画は、前総理事・伊庭貞剛が掲げた造林計画を継承した形だが、別子銅山にしても、周辺の山々にしても、実際に現場で植林を指揮、自ら実践した話が逸話として残されている。大正六年(一九一七)から、北は北海道から、南は九州・宮崎県の椎葉村まで山林業を起こし、遠く朝鮮にまで植林を行った。いずれも地元官庁の要請による林業振興策を受け入れたものであった。同八年には住友総本店に林業課(林業所の前身)を設置し、「国家百年の事業」として遠大な企画立案にとりくんだ。

当時は、北海道や全国に植林をした山は、いずれも住友が国から払い下げを受けるか借用した山、あるいは土地所有者から購入するか借りた山で、借用した山には植林などで元の自然林に戻して返却することも条件に入っていた。そのため住友では、所有・借用にかかわらず一律に植林事業を行った。

いずれにしても、鈴木馬左也は「住友の林業は百年の計をなさんとするもので、私は山林を住友最後の城郭と致したい」と述べており、また四阪島製錬所の煙害問題に対しても、損害賠償金以上のお金を費やして煙害防止装置で解決したいと宣言した。その意思は、馬左也の死後一七年後(昭和十四年)に中和工場の完成よって煙害の完全除去に成功した。

BACK住友「歴史探訪」トップに戻るNEXT

ページの先頭へ戻る

住友グループ広報委員会 Copyright © 2016 Sumitomo Group Public Affairs Committee All Rights Reserved.