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住友「歴史探訪」

第18回 大阪・新居浜編 その3 国家百年の事業第18回 大阪・新居浜編 その3 国家百年の事業

鈴木馬左也 総理事の誕生は明治三十七年(一九〇四)だった。そのときの就任挨拶では「自分は正義公道を踏んで、皆と国家百年の仕事をなす考えである」と決意を述べている。馬左也にとって住友は単なる営利会社ではなく、国家の尊い機関であり一要素であるとした。言い換えれば、住友にも国家にも報いたいと心がけ、理想とする事業のあり方や形を、長期展望によって計画したいという所信表明である。

官史から住友へ転身。多少の戸惑いもあったが、派遣された西洋諸国で多くを学ぶうち「日本を欧米先進国に匹敵する一等国にしたい」という夢を抱き、それは揺るぎない信念へと変わって行った。

住友伸銅場ケーブル工場(電線製造所の前身)
(明治後期)
写真提供 住友史料館

大塚小郎(林業所主任)宛て馬左也書状(大正9年)
住友肥料製造所 新居浜(昭和初期)
写真提供 住友史料館

そして、前号でお伝えした植林事業はもとより、今に繋がる住友の諸事業を次から次へと起こしていった。住友史料館の末岡照啓副館長の著述によると、明治四十四年八月、住友電線製造所(現、住友電工)を設立、わが国最初の電話・電力用高圧ケーブルを製造。翌年には伸銅場(現、住友金属・住友軽金属)で継ぎ目なしの鋼管の製造に着手し、海軍の復水管需要に応えた。また大正二年に肥料製造所を設立し、化学工場の先鞭をつけ、さらに同年、別子鉱山の電源開発を目的に土佐吉野川水力電気(現、住友共同電力)設立、宮崎県の椎葉植林に関係して耳川の水利権を確保。これが今の四国・九州電力発足の遠因になっている。

もう一つ、馬左也は「日本を一等国に…」という信念を貫くなかで、海に向って事業を拡大していく住友の軌跡を、そのままなぞっているようにも見える。水上交通の要所に位置し、かつて長崎出島のオランダ商館を通じて、海外との銅取引を始めたのもそうだったように住友近代化の歩みも海、港湾、運河というように海に向って、あるいは海の埋立地を基地に成長していったともいえる。

かつて大阪は「水の都」と呼ばれた。その中心にあって、商都大阪を象徴する場所といえば、多くの人が堂島川と土佐掘川に囲まれた中之島あたりの風景を上げるだろう。江戸時代、この付近には、大名の蔵屋敷などが多数立ち並び、川面には諸国の物産を満載した船がひしめきあっていた。近代に入ってから、大阪が都市としてさらに発展するためには大阪湾岸のウォーターフロント計画を整えることが、急務として求められた。

しかし、明治維新の激動の大阪経済は衰退し、なかなか実現できなった。だが大正五年(一九一六)、住友家は大阪市の大阪港桟橋拡張工事に資金を拠出すると共に、自らは大阪湾の築港事業拡大と臨海工業地帯の開発を目的に、大阪港の北側に所有する島屋・恩貴島新田を中心に、周辺の地主と正蓮寺川沿地主組合を結成して開発に当たった。馬左也は経営のトップとして指揮を執り、大正八年には経営効率を高めるため、大阪北港株式会社(現、住友商事)を設立して正蓮寺川沿組合から経営地を買い取り、新淀川から安治川河口一帯の開発発展に寄与した。

現在の此花区の恩貴島、島屋、西島、常吉などは、このとき形成された土地であり、現在も住友系列の金属、電線、化学工場群などの多くが進出している。住友の急成長と商都大阪の近代都市形成のプロセスを振り返ったとき、こんなことが言えるようだ。
「鈴木馬左也は住友に入った事で信念を曲げず、“日本の鈴木”として“国家百年の事業”を推進できたのだと思いますね。住友の事業が彼の時代に急成長したことと国の近代化が大きく前進したことは、切り離すことができないと思います」(末岡氏)

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