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住友の歴史と事業精神住友の歴史と事業精神

住友「歴史探訪」

第20回 大阪・新居浜編 その5 中田錦吉による近代的な雇用関係の確立第20回 大阪・新居浜編 その5 中田錦吉による近代的な雇用関係の確立

中田錦吉

「社員五十五歳。重役六十歳」という住友にとって初めての停年が制定された。第四代総理事・中田錦吉の手で敷かれたのである。就任わずか二年十ヶ月で、トップの座を自ら制定した停年制施行の日に降り、退職した。率先垂範を示し、余人はなかなかできない英断をした人物として、今も語り継がれている。

第二代総理事の伊庭貞剛が「老人の跋扈(ばっこ)」を戒め五十八歳で引退したが、同じように人事の停滞を憂いた中田が、これを成文化したもので、いわば企業を発展させる上での憲法で、その意義は大きなものと言えるだろう。

中田は東京帝国大学を卒業後、司法界に進み東京控訴院判事、横浜地方裁判所部長などを歴任し、東京控訴院部長だった時に、大学の三年先輩にあたる鈴木馬左也(後の第二代総理事)の推挽によって住友へ入社する。中田三十六歳のときだった。もっとも中田は、生まれ故郷の秋田県大館市は小坂鉱山に近く、鉱山業が国益に直結することを理解していたし、何よりも馬左也の説く「公利公益」優先の事業精神に共鳴したことが、入社の最大の動機だった。入社と同時に別子鉱業所の副支配人となり、馬左也を補佐する女房役として内治に専念した。住友の歴代総理事は、初代の広瀬宰平以来、別子勤務を経験しており、入社早々に別子勤務を任ぜられた中田も、将来を嘱望されたエリートといえる。

しかし総理事(第四代)を拝命するまでの二十二年間、別子鉱業所支配人、大阪本店理事、住友銀行(現、三井住友銀行)の実質上トップである常務取締役、鋳鋼所(住友金属の前身)電線(現、住友電工)などの役員を歴任しているが、その中で恐怖の“修羅場”も体験している。

東延斜坑機械場(明治後期)
写真提供 住友史料館

別子近代化の象徴的な立坑で
、8番坑レベルの富鉱帯を目指した。
この付近一帯が暴動の現場となった。

明治三十九年九月、中田は「飯場取締規則」を制定した。別子鉱山には江戸時代以来の飯場が十七あり、各飯場には飯場頭がいて配下には兄弟分・子分約百人が所属していた。だが、鉱夫たちは住友直接の雇い人でないため、採鉱課から支給される賃金・安米は飯場頭に支払われ、配下の鉱夫は不当に搾取されることが多かった。そこで中田は「飯場取締規則」を置いた。一、飯場の定数を二十に。二、賃金は鉱夫個々人に直接支払う。不良な飯場頭を罷免する。

これに対し、改革に不満を持つ飯場頭らはダイナマイトで坑内や諸施設を爆破するという流言を広め、紛争を企てた。これを知った中田は、鈴木総理事への書状で「此報告を信ずるは、却って彼らの手に乗りたるものならん」と述べ、断固たる処置で臨むとした。ところが飯場頭と扇動された鉱夫ら三百人余が暴徒化、事務所や社宅などに放火する大暴動に発展した。中田は、鈴木総理事に相談、愛媛県知事を通じて軍隊の出動を要請したが、これに恐れをなした暴徒は、軍隊の到着を待たずに自主解散、騒ぎは収まった。この紛争を機に近代的な雇用関係が確立された。

中田はもう一つ、大きな紛争事件に直面している。住友史料館副館長の末岡照啓氏によると暴動騒ぎの一年後の明治四十一年八月、四阪島の煙害被災地である東予(今治・壬生川など)を別子支配人らと視察した際、公害の補償問題などで殺気立つ農民ら一千人に宿を包囲される中、命がけで逃れた経験があった。「戊辰戦争で孤立無援のなか、官軍として戦った秋田藩士の血の流れを汲む人ですから、苦難に自ら立ち向かう住友精神を意中に秘め、騒動の渦中に飛び込んだのでしょう。武勇伝みたいな話ですが、農民達とその後も話し合い、補償問題を完全解決する道筋をつけました。」。

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