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住友「歴史探訪」

第21回 大阪・新居浜編 その6 湯川寛吉による住友の新たな一歩第21回 大阪・新居浜編 その6 湯川寛吉による住友の新たな一歩

湯川寛吉

趣味はゴルフで、現存する茨木カンツリー倶楽部を設立した関西ゴルフ界の草分け的な存在。そして江戸城無血開城させた勝海舟とは美人芸姑を張り合う仲など、数々のエピソードを持ち合わせるのが第五代総理事・湯川寛吉である。

「とにかく上品で洗練された社交上手の紳士。ドイツ語に堪能で休日はゴルフを楽しむという、当時としてはハイカラな趣味の持ち主で、温和でとっつきやすいタイプの人だったようですね」と住友の歴史研究を続けられている末岡照啓住友史料館副館長は説明する。

湯川は前任の総理事中田錦吉が自ら敷いた停年制に従って退社後、総理事となった。明治元年、紀州新宮藩(現和歌山県新宮市)の藩医の長男として生まれたが、医者になることを嫌い東京帝国大学法学部を卒業した後、逓信省入り。東京通信管理局長まで務め上げたが明治三十八年、三十八歳の時に住友入りした。

中田同様、大学の先輩である時の総理事(第三代)鈴木馬左也の強い推挽によって入社し鈴木、中田に次ぐナンバースリーとして、鈴木総理事を支え続けた。そして逓信省時代の外遊経験を含む外務省参事官などを歴任した豊富な経験が入社後も先見性、斬新なアイデアを創出するなど活躍した。

住友伸銅鋼管のシームレスパイプ(昭和元年)
写真提供 住友史料館

住友社則制定の通知(昭和3年6月14日)
写真提供 住友史料館
この社則によって、「営業ノ要旨」から
別子鉱山の条文が削除された。

明治四十三年五月、湯川は住友伸銅場支配人(住友金属、住友電工、住友軽金属の前身)を兼務することになり着任後、真っ先に取り組んだのが製管事業だった。当時の日本では罐管(かまくだ)や復水管などの高級管類の製作は出来ず、海外からの輸入に頼っていた。それを国内で生産出来ないものかと思案した湯川は、海軍工廠や英国から技術者を招き二年後には、わが国の民間企業としては初の“継ぎ目なし鋼管”「シームレスパイプ」の製造に成功。それを契機に住友は通信ケーブルとの関係から日本電気へ資本参加。住友鋳鋼所(住友金属の前身)では、海軍、鉄道用の外輪・輪軸・歯車・台車などの国産製鋼品を生み出した。その結果、昭和の高度経済成長期の一翼を担う新幹線など製造基幹の礎となる大きな役割りを果たした。

湯川のこうした功績の陰には、彼が打ち出した住友の歴史を変革させるような大胆な提起があったことを避けるわけにはいかない。
「広瀬宰平(初代総理人)が起草した住友家法(“営業ノ要旨”第三条)によって、別子銅山の事業は『住友家累代の財本』として守られ続けてきたが、その第二条には『時勢の変遷、理財の得失を計り弛張興廃する…』とあります。湯川は二十世紀前半の内外情勢を見極め、家法の規定に従い、『あらたな事業を推進するためには、進取の精神によって改良進歩を図る必要がある』と重役会議で所信を述べ、支持を得るんですね。そこで、別子鉱業所を直営事業から切り離して独立会社とし、本社の社則制定に当たり“営業ノ要旨”から別子の条文を削除した。住友は産銅資本からの飛躍をはかり三井、三菱などと肩を並べる総合企業へと舵取りをしたのです。これが今日の繁栄の礎を築いたと言えるでしょう。その意味では功労者と言えると思います」と末岡照啓氏は説明する。

湯川は、そのときの思いを主管者会議(経営幹部会議)で以下のように述べている。
「住友家ノ新事業ニ対スル態度ハ、慎重熟慮ヲソノ標語トシマスガ、(中略)在来ノ事業ニ対スル改良進歩ヲハカルト共ニ、堅実有利ナル新事業ニツキ、常ニ進言ヲ怠ラレナイ様、切ニ希望シマス」。しかし湯川は「住友ハ営利会社デアルガ、同時ニ国家社会ノタメニツクスコトガ住友ノ伝統デアル」と訓示することを忘れなかった。

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