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住友「歴史探訪」

第22回 大阪・新居浜編 その7 住友事業精神を受け継ぐ小倉正恆第22回 大阪・新居浜編 その7 住友事業精神を受け継ぐ小倉正恆

小倉正恆

石川県金沢市の城下「大衆免(だいじゅめ)」で官吏の長男として生まれた小倉正恆は、幼少の頃から祖父による漢書の勉学に勤しんだ。そのことが後年、住友第六代総理事、さらには近衛内閣の国務大臣・大蔵大臣へと上りつめた小倉の人生に大きく役立つことになった。

また金沢養成小学校の同級生には、後に明治後期から昭和初期にかけ小説家として活躍した泉鏡花、徳田秋聲がいた。元々文学者になることを夢見ていた小倉は、この二人の影響もあって文学に熱中し、文学の世界にのめり込んでいった。しかし明治二十七年、東京帝国大学(現東京大学)へ進んだ小倉は、文学の世界とかけ離れた法科の道に進むことになるが、小倉が常に愛読し続けたのが中国前漢の歴史家・司馬遷の「史記」である。その遷が残した名言・格言のなかの一文が気に入っている。「司馬遷が言っておるのですが、霊山大川、偉い人に会うということが人間を作る」―。

小倉正恆と住友の重役(明治44年)
住友史料館提供

後列中央が小倉正恆、その右中田錦吉、
前列右住友友純、その左鈴木馬左也

大臣就任式

明治三十二年五月、小倉は二十四歳の時、内務省から住友とへ転身するのだが、この「霊山大川…」字句が、これから企業家として歩む小倉を勇気づけると共に、各界の名士と言われる人たちの元を精力的に訪れては、見識を高めていった。そして昭和五年八月、小倉は湯川寛吉の後を継いで第六代総理事に就任すると、歴代の総理事が堅持してきた「住友の事業精神」を継承し、「住友の利益を収めるばかりではなく、国家社会に奉仕する」と宣言した。初代文殊院政友の教えが、時代を超えても脈々と行き続けるDNAとなっている事を示した。

また人材の育成面でも、新入社員を前にこう述べている。「みんなはこれから財界に入るのだが、財界というところは、ただ金を儲けるだけではいかん。先ず人間として立派でなくちゃ駄目だ。人間を磨け」。この演説を聞き「高い理想に何とも言えない感動を覚えた」と話す若者がいた。後の住友金属工業社長で関西経済連合会会長の日向方斎氏と、住友電気工業社長で国鉄再建監理委員会委員長を務めた亀井正夫氏である。

住友史料館副舘長の末岡照啓氏は「二人は、よほど感動されたのでしょう。その時受けた感動が、後の関西空港の建設や膨大な借金(三十四兆円)を抱えていた国鉄の分割民営化など、国家的なプロジェクト推進に役立ったのだと思います」と語った。
小倉総理事の時代は、住友傘下企業の再編に積極的に取り組んだ頃でもあった。昭和十二年三月、住友合資会社を「株式会社住友本社」に改組。連係会社を金属、電線、化学、機械、銀行、生命など十三社に拡大させ、社員も八万人に達する大事業体にした 。

しかし一方で、小倉は貴族院や内閣審議会委員を務めながら国家経済の政策や道徳教育について提言をしてきた。このことが「国家に必要な人物」と見なされ、時の近衛内閣に招請され、国務大臣、大蔵大臣を第二次、三次にわたって勤め上げた。その後も、日中文化交流に尽力し、中国関係の蔵書を愛知大に寄贈、現アジア・アフリカ図書館の設立など幅広い活動を続けた。
住友を去る(昭和十六年)にあたり小倉は「身は住友を去るが、心は住友を去らない」と、十一年に及ぶ総理事の仕事を振り返り、万感な思いを語っている。

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