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住友の歴史と事業精神住友の歴史と事業精神

住友「歴史探訪」

最終回 大阪・新居浜編 その8 最後の総理事 古田俊之助最終回 大阪・新居浜編 その8 最後の総理事 古田俊之助

近代の住友には、事業の基礎を固めて発展させてきた七人の総理事がいる。初代・広瀬宰平、第二代・伊庭貞剛など、いずれも住友の事業を国家の発展のために役立てようと道義に基づく事業経営に邁進してきたトップリーダーたちだ。
第七代総理事・古田俊之助もその一人だった。日本が第二次世界大戦に敗れ、国土が焦土と化す厳しい時期に、住友家長・友成(第十六代)と住友傘下企業の三十五社、従業員約二十万人を守ろうと奔走したのが“最後の総理事”となった古田俊之助である。

昭和二十一年一月、占領軍GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)によって、日本の財閥本社が次々と解体令を受けたように、住友にも解体令が下り、住友本社を解散せざるを得なかった。戦時中も国策として、金融機関の再編を余儀なくされ、住友と大阪海上火災が合併。また住友鉱業、金属、電工、化学、アルミ、通信(NEC)、板硝子などの企業が「軍需会社」に指定され、権限を本社から「住友戦時総力会議」に移行させ、政府の統制に対処してきた。

住友本社の解散式(昭和21年 本社屋上にて)
前から3列目中央が古田俊之助
住友史料館提供

だが、こうした一連の国策に沿った事業展開も、敗戦という国難に直面し三百年余の歴史と伝統を誇る住友が解散、幕を閉じることになった。問題は、解散は致し方ないにしても、生涯を住友に捧げてきた多くの従業員をどう扱うか。戦時中に朝鮮・満州方面などの関係会社に派遣されていた人達が、続々と内地に帰還していた。古田はGHQと交渉した。「住友の全責任は私にあって、他の何人(なにびと)にもない」と説明。公私の別を訴え、住友の事業と従業員を守る見通しがつくと、率先して住友本社を解散した。

そして、古田が住友人に対して悩んだ末に下した決断は(一)拡張しきった各方面の事業を収拾、人材の離散を防ぐ。各人に出来るだけ仕事を与える。そのためには新しい事業企画を立てる(二)海外引揚者とその家族の援護を十分にする(三)住友の事業を滅ぼさずに転換し、将来、民族と国家の繁栄に繋がるように運営する―など。これが古田の住友人に対する報謝の念であり、住友の人材を温存し、いつの日か再び蘇る日の核を残して置きたいという密かな期待が込められたものだった。

それは古田の就任の際、連係各社に向けた「事業の盛衰は人にあり」とする人材育成の大切さを説いたところにも現れている。「住友は営利だけを目的とせず、正しい事業を進めていく、他に類のない伝統がある住友の各事業は兄弟分であることを、あくまで失わないように精神的に提携してやって頂きたい」と語った。住友は解散し資本関係が無くなっても、住友の事業精神を遺伝子(DNA)として共有して守り伝えてほしい、と述べたのである。

古田俊之助

明治十九年、京都府下で生まれ、同四十三年、東京帝国大を卒業、住友に入社。職工として鋳造技術を取得するなど、汗と埃まみれのエンジニア出身だが、住友伸銅場支配人から住友伸銅鋼管、住友金属、満洲住友金属など金属工業全般の指揮を執り昭和十六年四月、小倉総理事の後を継いで七代目総理事へ。幅広い統率力を持ち、部下から「おやじ」と慕われた。
山本五十六(連合艦隊司令長官)とは事業を通じて交友、松下幸之助には「経営者の根本を学び “松下の理念” 」になっていると言われた。六十八歳没。

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