つぼいひろきの住友グループ探訪
日新電機 石村亭
谷崎潤一郎が1949年4月~1956年12月、63歳~70歳までの7年間、生活した邸宅。
谷崎家の転居に際し、日新電機が譲り受け、保存している。
谷崎潤一郎が1949年4月~1956年12月、63歳~70歳までの7年間、生活した邸宅。
谷崎家の転居に際し、日新電機が譲り受け、保存している。
1960年に出版された小説『夢の浮橋』の舞台であり、日本の耽美小説の第一人者である文豪、谷崎潤一郎がかつて住んでいた「石村亭」は、京都駅から車で20分ほど走った所に現存している。
生涯において40回以上も引っ越しを繰り返した谷崎が、1949年4月~1956年12月の約7年間、63歳から70歳まで生活し、最も愛したという邸宅だ。中門は両端に2本の杉丸太を立てたシンプルなもので、ひっそりとした門構え。まるでタイムトンネルの様に感じられ、谷崎潤一郎が生きた時代に吸い込まれていくようだった。
この石村亭はもともと1911年ごろ建てられた家で、谷崎が1949年に買い取った。妻の松子、妹の重子たちと7人で生活し、『鍵』などの作品をここで執筆した。1956年に谷崎家が熱海に移り住む際、松子の女学校時代の同級生の夫が、日新電機の役員を務めていた縁で同社に売却した。「京都を訪れた際には見に行きたいので、現状のまま使ってほしい」という谷崎の願いを同社が守り、現在まで保存しているのだ。この保存にあたって修復の判断が大変だったと、同社総務部(CSR担当)梶間俊郎さんは言う。
「元の状態に修復して残すのか、未来へ長く残せるように建材を変えるのか、社内でも議論を重ねながら、雰囲気を壊さない範囲で耐久性を持たせることを探りながら進めてきました」
石村亭は普段、同社の迎賓館として使われており非公開なのだが、今回は特別に取材させていただいた。ルポライターのはしくれとしてこんなにうれしいことはない!
(1)『鍵』などの名作が執筆された、書斎。
(2)同時期に活躍した文豪、志賀直哉たちとの交流の場であった、応接間。
(3)谷崎潤一郎、書斎での1枚。
まず、美しい日本庭園を挟んで母屋とは向かい側の離れにある、書斎に伺った。フリーランサーにとって憧れの「住まいとは別の場所に仕事部屋を借りる」ということを自分の敷地内でやっておられたとは!
書斎は8畳(14.56m²)の和室で、中心には谷崎潤一郎が使用した机と同形のものが置かれていた。この部屋で執筆していたのかと思うと緊張が走る。1956年に『中央公論』上で発表された『鍵』の一部は、この部屋で口述筆記を行った。書斎の左奥に置いた小さな机で、担当者は谷崎が話したことを文字に書き起こしたという。その奥に続く応接間は、同時期に活躍した文豪である志賀直哉など、友人と交流するために使用したものだ。原稿を取りに来た編集者はここへは通さず、書斎がある離れと中門の間に立っている、洋館で待たせていた。
庭園の滝と羅漢像(上)。天窓から空が見える、お風呂場(左)。
『夢の浮橋』の挿絵(左)にも描かれた廻(まわ)り廊下と、その向こうに日差しよけのムベ棚(上)。
(挿絵:田村孝之介)
驚いたのは谷崎の日々の生活だ。谷崎は母屋から朝5時に書斎へ出社、夕方5時に退社という規則正しい働き方をしていたそうだ。また、よほどの急用以外は書斎に家人が入ることは許されず、「只今執筆中」の看板を掲げていたのだとか! プライベートと仕事を完全に切り分けていたのだ。自分もそうありたいが、なかなか1つの家に仕事部屋があると難しい。離れが作れるように自分も頑張ろうと心に誓った(笑)。
谷崎が生活していた母屋は、木造瓦葺の平屋建てだ。母屋の南側から東側にかけて廻まわり廊下と刎高欄があり、日本庭園を270度見渡すことができる。この景色は前出の『夢の浮橋』の挿絵としても描かれている。庭園は回遊して鑑賞する形式のため、見る角度によって景色が違うし、奥行きもある。左奥の築山から水が流れてきて滝になり、添水をカコーンカコーンと鳴らしながら池へと流れる。南側には日差しよけにムベの棚があり、春になるときれいな花を咲かせるそうだ。
また、少し立ち入った場所ではあるが、お風呂場も見せていただいた。ヒノキの香りが満ちた清々しい空間で、天窓からは空が見える。ここで谷崎は一日の疲れを癒やしたのだろう。今回の取材を通して、谷崎作品の美しさの裏側を知り、より作品の魅力を感じるようになった。
「石村亭は日新電機にとって、行動の原点である"誠実・信頼・永いお付き合い"の象徴でもあります」という、経営企画部の小池辰典さんの言葉が胸に残った。今後ますます文化的価値、建造物としての価値が高まっていくだろう石村亭を、世界中にいる谷崎ファンのためにもずっと守っていってください!
受変電設備をはじめとする電力機器などを製造・販売。1910年11月、日新工業社として創業し、2017年に日新電機(株)として創立100周年を迎えた。創業当時は今で言うベンチャー企業のような会社であった。社名の「日新」は中国の古典が由来で、電力機器という、重くて簡単には形を変えづらい機械であるからこそ、「少しでも新しくしようとする努力を、途切れなく続けなくてはいけない」というベンチャー魂が込められている。
今回伺った「石村亭」は普段、非公開ということもあり、 スタッフ一同、期待で心を躍らせて取材に挑みました。
つぼいさんが書いているように、「石村亭」はどこを見ても美しく、ガラリと印象が変わります。母屋の一室で障子を閉めると、 障子にはめ込まれたガラス窓越しに見える庭園が、まるで額に入った絵画のように見えます。実際に庭園を歩いてみても、聞こえる音や見えるものが移り変わり、これら全てが文豪・谷崎潤一郎のこだわりであったそうです。
こだわりは、生活面でも徹底されていました。谷崎家の夕食は18時半と決まっており、身だしなみを整えたうえで全員が揃っていることがルールだったそうです。というのも、谷崎は毎朝台所に向かい、魚屋さんが持ってきた魚を夕食のメーンディッシュ用に自ら選んでいました。 そして、夕食に基づいて1日の計画を立てたそうです。
「時間が読めないことの多い創作の仕事であるにもかかわらず、1日のスケジュールをきっちり守っていたこともすごい」と、つぼいさんがしみじみ感激している横で、スタッフ全員大きく頷きました。