【中国・四国地区代表】岡山県立岡山盲学校 普通科2年生 竹本登久子さん(73歳)
桜の花が満開の昨年4月11日、私は、周囲からの協力を得て、高等部普通科1年生の生徒として、岡山盲学校の正門をくぐることができました。その日が私の新しい人生の始まりでした。
幼い頃から目が見えにくかった私の将来のことを案じた両親が「お筝(こと)の師匠にさせよう」ということで、筝曲の道へ入門することになりました。修行はとても厳しいものでした。昼間の稽古(けいこ)に加え、夜が明けるまでお筝を弾き続けることも幾度となくありました。見えていた目が次第に悪くなり、やがて全く見えなくなってしまいましたが、テープレコーダーを使用したり、稽古方法を一生懸命考え、取り組んで参りました。
修行を終え、門下生を育てる身となり、お筝の世界でのいろいろなお世話をさせていただくようになりました。これまでの人生、筝曲の道に進めてくれた両親や、周囲の方々への感謝の気持ちでいっぱいです。
しかし、一つだけ心残りがありました。それは学校での勉強です。中学を出たとき盲学校へ進みたかったのですが、お筝の会の会長さんに「学校との両立は難しい」と言われ、経済的なこともあり、進学を断念したのです。ですが、その後何回も何回も学校へ通う夢を見ました。
筝曲の道での60年の生活にひと区切りをつけた今、あのとき果たせなかった「夢」にかけることを決心したのです。
私は、ずいぶん年齢が高くなっておりますので、そっと入学し、静かに卒業したいと思っていたのですが、あっという間に一般の方に知られてしまいました。でも、盲学校へお筝を教えに行っているのだろうか、それとも聴講生としてしばらくの間、勉強に行ったのかもしれないけれど、すぐ音を上げて帰ってくるだろうと思っていた人も多かったようです。
「学校はとっても楽しくて、忙しくて、毎日が夢のように過ぎております」
という私の声を聞いた人たちの間から、
「こりゃあ、やめて帰りそうにはないぞ」
という、ひそひそ話を耳にしたこともありました。
長年の夢がかなったのです。何のやめて帰ってたまるものですか!
私のクラスメートは5人います。クラスの皆さんと私との年の差が50歳以上も離れているとはどうしても思えず、かえってみなさんの方が先輩に思えるような毎日です。とってもにぎやかでよくおしゃべりし、よく笑い、明るい教室の中で私もみんなのパワーをもらいながらいつも楽しく勉強を続けております。
いろんなことを習う中で歩行の訓練をしておりますが、入学する前までは白杖(はくじょう)を使ったこともなく、点字ブロックを踏んだこともなく、移動の時にはいつも介助をお願いしておりましたので、一生のうち二度と一人で歩けるようになるとは思ってもおりませんでしたが、訓練のかいあって、寄宿舎から学校までの往復を毎日白杖を持って一人で通学できるようになりました。
しかし、校内の階段から落ちて右手の中指を骨折したり、コンクリートの柱に額をぶつけたり、転んで顔に大きな傷を作ったりもしましたが、そんな時はたいてい先生からのご注意が守られていなかった時でした。もう一度気をひきしめたのもこの大けがのときでした。
私は、人生でつらかったこと、悔しかったことをプラス思考で乗り切ってきました。だからこそ、盲学校でのみなさんとの出会いも神様が下さったのではないかとも思っております。何事もやる気があればやり始めが遅いということはないと思います。盲学校卒業後は音楽関係の大学へ進学し、お筝の指導法や新曲を学びたいと思っております。これが私の新たな目標です。これからも何事も成就できるまで、なお一層精進し、花の女子高生として、今でなければ味わえない厳しさを楽しさに変えて、目標の進路に向かって悔いの無い学生生活を送っていきます。ご静聴ありがとうございました。
【近畿地区代表】大阪市立盲学校 高等部専攻科理療科2年 西亀 真さん(49歳)
「念のために、もう一人の先生にも診てもらいましょう」。この「念のために」という言葉が、何か私を不安にさせました。その総合病院の眼科の先生は、メモ用紙に大きな字ではっきりとこう書かれました。「網膜色素変性症」。そして、「この病気は進行性の病気で、治療法は残念ながらないんです」と話されました。そこから、私とこの病気の旅が始まるのですが、その時の私にはまだ、この病気が私に何を伝えようとしているのか分かっていませんでした。
当時、私の趣味は、テニス、スキー、サーフィン、クレー射撃、そして書道でした。その楽しみの一つ一つがだんだんとできなくなってゆく、まるで私の生き甲斐が一枚一枚はがされてゆき、最後には何も残らず、何もできなくなってしまう。そんな不安と、恐怖と、情けない気持ちでいっぱいでした。
そんなある時、町中で年輩の女性にぶつかってしまい、その人は大きな声で「かなわんわぁ、この人。変な人やわぁ」と、大勢の前で私をしかりつけました。私は何度も何度も「すみません、すみませんでした」と謝りました。そして別れた後、「変な人」になる自分がとても悲しくて、思わず涙がこぼれました。悲しみと不安の渦に巻き込まれそうで、「何とかしなきゃ。何かにつかまらなきゃ」。そんな思いで点字の勉強を始めました。
だけど、点字を読むのはとても難しくて、とうとう、ある夏の日の朝、点字を教わっていた松井先生に泣き言を言いました。「先生、私には、どうも点字は無理なようです」。すると、先生は、「そうですね。難しいですね。でも、これは私も聞いた話ですが、昔、両目が見えなくて、そのうえ両方の手も失った方が、唇で点字を読まれたそうです」。私はこれを聞き、体に電気が走りました。唇で点字を読むということがどれだけ難しいことか。私は、よし! もう一回頑張ってみようと点字の勉強を続けました。そして、何とか読めるようになった時、「ああ、あきらめなくて良かった。人生、無理だ、できないと思うことでもあきらめなければ何とかなる。この先、目が見えなくなったとしても、何とか生きてゆけるかな」という小さな自信と小さな希望が生まれた瞬間でした。
そこから次々と、新しいことにチャレンジし、新しいことが見つかり、新しいことができるようになりました。
真っ暗なところでも点字の読み書きができるって、ちょっとすごいじゃないかって、自分で思えるようになりました。ほんとうにあきらめなくてよかった。
真っ暗なところでも点字の読み書きができるって、ちょっとすごいじゃないかって、自分で思えるようになりました。ほんとうにあきらめなくてよかった。
みなさんは、どのように思われますか。目が見えなくなってだんだんとできなくなる。これは、一見、失う、なくなってしまうというふうに考えますか。でも、実は、「なくなる」ということは、その次に新しいことが生まれるっていうことだと、この病気が私に教えてくれているように思うんです。仕事の面ではカウンセラーという新しい道が生まれました。盲学校の生活が生まれました。また、それがきっかけで、ある奇跡的な出会いが生まれました。
その出会いとは、先ほどの唇で点字を読まれたという、そのご本人に出会えたのです。その方は、偶然にも私が通う大阪市立盲学校で、以前、教師をされていた藤野高明先生という方です。お会いできてうれしかったです。本当にうれしかったです。何しろあの夏の朝、あきらめかけた私に勇気を与えてくださった、私にとってはまさに幻の人だからです。その藤野先生が、再び、私に勇気の言葉を教えてくださいました。その言葉とは、「障害を壁と思うか扉と思うか、それは本人次第」。もう一度言います。「障害を壁と思うか扉と思うか、それは本人次第」。扉と思えば未来が開けます。
私はこの先、この言葉を大切にしながら扉を開いてゆこうと思います。それでも、それでも、扉が見えなくなったときには、自分に向かって声をかけようと思います。「決して決してあきらめないで あなたの夢を」って。あきらめたら、そこまでですから、ね。
みなさん、ありがとうございました。
【東海地区代表】岐阜県立岐阜盲学校 高等部普通科2年 今井実希さん(16歳)
皆さん、こんにちは。私は、視覚障害者です。体重が1000gに満たない未熟児で生まれたため、未熟児網膜症という病気になりました。しかし両親が私のために遠い病院を訪ねてくれたおかげで、右目は光を感じる程度、左目は、0・05ほどの視力を残すことができました。見るということについては、多少の不便はありますが、毎日楽しく生活しています。
でも家族は、たまにこう言うんです。
「あんたの目さえ見えとりゃなあ。本当に悔しい。できれば代わってやりたいよ」。小さいころは、ただなんとなくそれを聞いていたのですが、大きくなるにつれてそう言われることが悲しくて仕方がなくなってきました。自分の目が不自由だからではありません。晴眼の人たちが、視覚障害を不幸なこと、気の毒なこととしか思ってくれないから悲しいのです。たしかに人は80%の情報を目から取り入れると言われているし、健常者が一番持ちたくない障害は、視覚障害だと聞いたこともあります。でも、それは不幸なことでしょうか。私の考えは違います。
まず初めに、人が視覚障害を持つ確率なんてそう高くはありません。そんな中で視覚障害を持つ人として私たちは選ばれたのです。これはすごい運だと思いませんか。これをプラスにとらえるかマイナスにとらえるかは、その人しだいです。もちろん私はプラスにとらえます。今までに、視覚障害の良さをたくさん見つけました。
例えば目が不自由になると、それを補うために、触覚や聴覚が発達します。小さいころ、私は遠足でもらえるおやつの中身を袋の外から触って当てるのが好きでした。また「音」について考えるのも好きです。私には、身の回りにあるほとんどの音が「ドレミ」の音階で聞こえます。たとえば、私の家のドアチャイムの「ピンポン」という音が、「ラーファー」と聞こえます。いつでも音楽室にいるみたいで、とても楽しいです。
他にもあります。私たちは、いんなところで周りの人に助けられますよね。自販機にどんなジュースがあるか照れくさそうに教えてくれた女の子、駅の入り口から電車まで、ずっと手引きをしてくれたお姉さん、公衆電話をかけるのを手伝ってくれたおじさん、そんな人たちの温かさを体全体で感じるときもまた幸せです。
今挙げたのは、視覚障害のプラスの面ですが、当然いやなことも経験しました。前に家族でキャンプに行ったことがありました。もちろんホテルとは違って足場の悪い屋外です。そこで一番困ったのがトイレでした。トイレに行くには、たくさんのテントの間を歩かなければならず、夜ならなおさら一人では行けません。テントでくつろいでいる妹や、忙しそうにしている母に「ねえ、トイレに行きたいんだけど」とは、なんとなく言いづらい。だからって我慢もできないし。生活の中で「トイレに行くこと」は、もっともプライベートな事なのに、好きなときに好きなようにいけない。この苦痛は大きかったです。あれがもしも知っている場所だったら、トイレぐらい自分で行けたし、あんな変な気を使わなくて済んだのに。視覚障害というハンディの重さを感じました。このように「見えない」ということに阻まれて、思うように動けないことが私たちには、よくあるし、学習面でも生活面でも苦労することは、山ほどあります。
でもだからといって私は、後ろ向きにはなりません。なぜなら一つ苦労を乗り越えるたびに私たちは、きっと何かを得ているだろうし、強くもなっていくはずです。こういうふうに考えればどんなことにでも立ち向かえるような気がしませんか。
私たちが視覚障害を持ったことには、必ず何か意味があるはずです。視覚障害を持つ私たちにしか果たせない大切な役割があるということではないでしょうか。それは職業という形でかもしれないし、もっと身近にあるものなのかもしれません。まだ誰にも発見されずにあちこちで眠っているような気がするんです。私は、これからそれを探したいと思っています。どこかで眠っている未知のものをこれから見つけに行くなんて、なんだか宝探しに出かけるみたいですね。でも自分の「役割」を探すなんて、なかなか難しいことです。だからとにかく今は、そのきっかけをつかむために怖がらずにいろんなことに挑戦して行こうと思います。またこういう形で私たちの存在をアピールすることで視覚障害者は、不幸だ、気の毒だ、いったい何ができるの? というようなマイナスなイメージが無くなっていけばいいなと思います。
このように視覚障害を持つことができてラッキーだと考えれば、私たちの世界は無限に広がっていき、新しくなっていくでしょう。他の誰にも果たせないみなさんの、そして「私の役割」が必ずあると信じています。さあ、宝探しに出発です。ご静聴ありがとうございました。