全国盲学校弁論大会特別協賛

弁論を読む 第76回(2007年) 全国盲学校弁論大会

<優勝> 働く喜び 実らせて

【近畿地区代表】大阪市立盲学校 高等部専攻科理療科1年 三ツ井 直樹さん(35歳)

この春、私はある歌に出会いました。その歌とは、大阪市立盲学校校歌です。私にとって、小学校時代から数え、5度目の校歌。34歳にして、新たな校歌との出会いです。

23歳の4月よりサラリーマンとして働き始めた私は、入社して約半年が過ぎたころ、仕事で車を走行中、事故を起こしそうになりました。トンネル内の暗さに目が馴染まず、側壁に危うく衝突しそうになりました。私は翌日、病院に行き、医師から「網膜色素変性症」と告げられました。

しかし、私には実感がわきませんでした。次の一言を聞くまでは・・・・・・。

「車の運転は、今後やめて下さい」

「えっ、車の運転あかんの? 仕事、どうしよう」

私は焦りました。

「大好きな仕事ができなくなるかもしれない」

私は会社へ即、病気のことを正直に報告しました。すると会社は私に配慮下さり、営業職から内勤の事務職へ配置転換して下さいました。職種は変わっても、仕事は続けられる。会社にもとどまれることに、ホッと安心しました。

「よし、これからは定年まで事務職で頑張っていこう。配慮して下さった会社のためにも」。そう自身に誓い、日々仕事に励みました。

しかし、私が想像していた以上の速度で、病気は進行していきました。書類やパソコンの画面がだんだんと見えづらくなっていき、同僚や後輩たちがどんどん責任のある仕事を任されていくなかで、私はそれまでできていた仕事でさえ、思うようにはかどらなくなっていきました。

「この病気は、私から仕事までも奪い取ってしまうのか」

そのころからでしょうか。私はこの病気と真剣に向き合うようになりました。視覚障害者の集まりにも、参加するようになりました。そこで、あん摩・マッサージ・指圧・鍼灸の存在を知り、その仕事への思いを募らせていきました。

「確かに目は悪いが、自分には丈夫な腕、手、指がある。よし、盲学校へ入学し、あ・は・きの道を突き進もう!」

今年3月、私は11年間勤めてきた、大好きな会社を自ら退職しました。会社の方々と別れるさみしさ。会社に十分恩返しできなかった悔しさ。そして、何よりも、いったん「働くこと」から離れてしまうつらさで、その日は涙があふれ、止まりませんでした。しかし、いつまでも感傷に浸ることなく、さまざまな思いは胸の中にしまい込み、新たな希望を抱き、この春、大阪市立盲学校の門をくぐりました。

4月、入学式の日。「校歌斉唱」のアナウンスの後、曲が流れ始めました。

「大阪市盲の校歌は、どんなメロディー、歌詞なんかな?」

私は、じっと耳を澄ませました。そして、校歌が3番に差しかかった時、あるフレーズが私の心に響きました。そのフレーズとは、「働く喜び 実らせて」です。

「盲学校で、しっかりと、あん摩・マッサージ・指圧・鍼灸を学び、3年後、また必ず働きます!」

会社退職の日、上司、同僚、後輩の前で誓った言葉をハッと思い出しました。

私にとって「働くこと」「働けること」は常に喜び。その思いが校歌に歌われていたのです。

輝く歴史 大阪市盲

理想も高く 生きる日々

働く喜び 実らせて

雄々しく 飛び立て天空へ

自由と平和の 明日を拓く

今、ここにお伝えした校歌を聴くたび、歌うたびに、私は未来へ向かって羽ばたく勇気や希望が、沸々とわいてきます。

自分の思う通りいかず、壁にぶつかること、つらいこともこれから数多く出てくるでしょう。それらが自身の目の病によるものなのか、他のものであるのかは分かりませんが、そんな時、心の中で、また時には声に出して、自らを励まし鼓舞すべく、この校歌を歌いたい、歌っていきたいと思います。

「あん摩・マッサージ・指圧師、鍼灸師」として働ける、その日まで。

<準優勝> おいしい話

【北海道地区代表】北海道高等盲学校 高等部普通科3年 風間 沙織さん(18歳)

私の出身地、釧路市は漁業の盛んな町です。水産加工場や魚屋がたくさんあり、路肩などでは荷車で魚を売っていたりしていて、いつでもおいしくて新鮮な魚が食べられます。私の実家の近くにも魚屋があり、そこの店のおじさんは「今時季の蟹は鉄砲汁にして食べた方がおいしいよ」とか、今朝の市場の様子や魚の上手なさばき方などを教えてくれたりします。釧路とはそんな町です。

ところが最近、気になることがあります。それは、大型のスーパーなどへ行くと、外国産の魚が売られているのが増えてきた、ということです。ノルウェー産の鮭や鯖、カナダ産の鱈(たら)やロシア産の蟹など、なぜこの釧路で、こんなにたくさん外国産の魚が売られなければならないのだろう。そう考えながら店内を見て回ると、ほかにも外国産の食品がたくさんあり驚きました。また、よく見ると、加工されたのが国内であっても、原料は外国産という食品も意外とたくさんあり、最近まで話題になっていた日本の食料自給率が低いというニュースに今更ながら注目することになりました。

そこで、なぜこんなにたくさん外国産の食品が売られなければならないのかを、自分なりに考えてみることにしました。

まず一つ目の理由は、外国産の食品は国内産の食品と比べて価格が安いということです。消費者側からすれば、高い物より安い物を買いたいと思うことは、ごく自然な考えだと思います。私自身、買い物をする際には、なるべく安く済ませたいと思います。消費者が安い物を求めるなら、売る側としても安い外国産の食品に頼ることは当然のことだと思います。外国産の食品は、もはや私たちの生活を支える一部になっているのではないのでしょうか。

そして、もう一つの理由は、私たち消費者が少しわがままになってきているのではないのか、ということです。私たちは、食べ物に「旬」というものがあることを忘れてしまったのではないのでしょうか。春先にカボチャ、真冬にアスパラやブロッコリーなどが売られている最近のスーパーには、何だか季節感が感じられません。そして、その季節感を無視するように売られている食品の大半は、外国産の食品です。私の意見としては、もう少し待って、国内で採れる、旬でおいしい物を食べれば、こんなにたくさん、外国産の食品に頼らなくてもよいのではないのかと思います。

このように、私のなかでは外国産の食品に対して、賛成、反対、両方の気持ちがありました。しかし、「フードマイレージ」という言葉を知り、私の考えは少し変わりました。この「フードマイレージ」とは、地産地消の推進と温暖化防止のために提唱されている考えです。どのような考えかというと、海外から輸入されてきた食品が食卓に届くまでの輸送にかかったエネルギー量を数字に置き換えるという考えです。具体例として、アメリカ産の小麦粉で作られていたパンを食べていたのを北海道産の小麦粉のものに切り替えたとします。そうすることにより、今まで輸送にかかっていた石油などのエネルギーが減り、その際に排出されていた温室効果ガスなども減り、温暖化防止につながるということになります。私はこの考えを知ってから、自分が買い物をする際には、なるべく産地を気にするようになりました。

すべてを国内産の物で賄うことは、そう簡単にできることではありませんが、私はこの「フードマイレージ」という考えを知ったからには、実践しないわけにはいかないのです。なぜなら、私の古里・釧路が少なからず温暖化の影響を受けているかもしれないからです。ここ何年かで、道東方面の漁業に異変が起こっています。秋刀魚(さんま)の型が小さくなったり、鮭の水揚げ量が減ったり、水揚げの時期がずれたりと、このほかにもいろいろな異変が起きています。これらの異変に対して、さまざまな説が挙げられています。生態系の変化や海流の変化、人間による乱獲など、さまざまな説があります。そして、そのなかに温暖化という言葉もありました。

私は、古里の自慢である漁業に異変が起こりつつある今、自分ができる範囲での対策はないのかと考えていました。そして、「地元で取れた物を食べていれば、地元の食文化も守れるのではないのか」という考えにたどり着いたのです。「四里四方に病なし」ということわざがあります。自分たちの家の周りで採れた物を食べていれば、健康で病気にならないということわざです。人間が元気でいられると同時に、環境も健全な状態でいられるという地産地消の理念は、ずっと昔からあるものなのです。

私は秋が大好きです。秋になると母は、旬の秋刀魚を買い込み、秋刀魚の甘露煮を作ってくれます。その甘露煮を家族そろって「おいしい!」と言いながら食べる食卓は、私にとってこの上ない幸せのひと時です。地元でとれた旬の物を、家族そろってみんなで食べる。そうすることにより、ささやかではありますが日本の食料自給率も上がり、温暖化も防ぐことができます。そして何より、おいしい物を食べることによって、家族の会話も自然と増えるのではないのでしょうか。地産地消を実践することによって、良いことがたくさん起こるかもしれません。こんなおいしい話、ほかにはないと思います。

みなさんも、ほんの少しでよいので、今一度「自分たちの食」「地元の食」について、考えてみてはいかがでしょうか。

<3位> 一球から得た物、一打に込める思い

【中国・四国地区代表】岡山県立岡山盲学校 高等部普通科3年 義村 一仁さん(17歳)

「ここであきらめたら負ける! 今までやってきたことを発揮しきれないまま終わるのか? いや、ここまできて、あきらめてたまるか!」

その一心で、必死にラケットを振り抜いたのは去年の10月、全国障害者スポーツ大会卓球の3位決定戦でのことでした。ある一つのものとの出会いが時に、それまでの考えや生き方に大きな影響を与えることがあります。僕は、たった一つのスポーツを通して、大切なことに気づくことができました。

そのスポーツ、卓球に出会ったころ、僕には悩みがありました。

幼いころ頭部の手術をした僕は、小・中学生の間、頭部への衝撃を避けるため学校内でも常に帽子をかぶり、万一の事故に備えて休み時間中も必ず先生が1人は付くという生活を余儀なくされました。自分自身には特に痛みがあるわけでもなかったので、自分だけがなぜ周囲の人たちと違う生活をしなければならないのか、なぜ周囲の人にここまでしてもらわなければならないのかと、随分歯がゆい思いもしました。そればかりか、小学生の時には医師から激しい運動を禁じられたのです。そのため、幼いころに周りの子どもたちと同じように体を動かすことができず、中学生になってやっと体も丈夫になり、好きなだけスポーツができるようになった時には、僕と同年代の健常者との間には、決定的な基礎体力の差がありました。根っからの負けず嫌いの僕には、そのことが悔しくて、悔しくてたまりませんでした。

そんな時でした。僕は中1の時、顧問の先生のお誘いで卓球部に入部しました。最初のうちは軽い気持ちで始めたのですが、これが想像していた以上に難しく、慣れるまでは苦労しました。しかし、徐々に練習の成果が出始め、ある日の体育の時間、ついに、それまで何をやってもかなわなかった先輩に卓球の試合で勝つことができたその時、僕はこのスポーツを本気で極めたいと思ったのです。今思うと、卓球を好きになった最初のきっかけは、「これなら周りの人に勝てる」と自信を持って思えるスポーツを見つけた喜びだったのかもしれません。とても単純な動機に聞こえるかもしれませんが、当時の僕にとってその気持ちはとても大切なものであり、それは5年たった今でも変わっていません。

僕は、卓球を続けていくなかで、気づいたことがあります。卓球を始める前、僕は周囲の人たちと違う生活をしなければならない歯がゆさ。そして、スポーツが思うようにできない悔しさから、すべてを目が不自由なせいにしていた時期がありました。

「目が不自由だから、ほかの人と違っても仕方がない。スポーツが思うように楽しめなくても仕方がないんじゃないか」と、思うことで、ただひたすら自分から逃げていた時期がありました。

しかし、それはまちがいでした。障害者でも、健常者でも、普段の生活の中から楽しみや生きがいを見つけ出し、夢や希望をつかみ取る力は、絶対に平等だと気づいたのです。僕は、自分に障害があるというだけの理由で、その可能性さえも捨ててしまおうとしていました。しかし、卓球というスポーツを通して、その可能性を取り戻すことができました。今僕は、自分の障害を、そして12年間過ごした盲学校での経験を生かして、大学に進学し、盲学校の教師になることを考えています。障害があることで自分の可能性を捨ててしまうのではなく、逆に障害があるからこそ同じ障害を抱える人の立場にたてるという新しい可能性を見つけることができたからです。一番大切なことは、何があっても絶対にあきらめないことです。全国大会で連敗し、あと1試合負ければメダルが手に入らないところまで追い込まれ、それでもその試合を何とか勝って銅メダルを手にした時、僕は少々のことであきらめてはならないということを実感しました。たとえ困難でも、たとえ時間がかかっても、あきらめず、心を強く持ち続ければ、そこに障害者と健常者を隔てる壁などありはしない。そのことをさまざまな体験や多くの人たちとの交流を通して気づかせてくれた卓球に、僕はとても感謝しています。

卓球というスポーツから僕に放たれた、たくさんの贈りものが詰まったすばらしいサーブ・・・・・・。これから僕は、そのサーブに「卓球から得たことを生かして、あきらめずに自分の夢をつかむ」という最高のレシーブで応えたいと思います。

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