全国盲学校弁論大会特別協賛

弁論を読む 第77回(2008年) 全国盲学校弁論大会

<優勝> 踏み出す

【東北地区代表】福島県立盲学校 高等部普通科3年 鈴木 祐花さん(18歳)

「おー、これがおれの名前かー!」
私は去年の夏、近くの私立高の夏期講習に参加させていただきました。テキストは先生方に点訳していただいて。5日間、私立文系コースの27人の皆さんと一緒に、国語と英語を受けました。
7月23日、期待と不安に胸を膨らませながら、2年7組の教室へ向かいました。
「おはようございます」
ドアを開けると、ガヤガヤしていて人数の多さを感じました。男子26人だけだったので、何となく観察されているような、よそよそしい感じがしました。
私の席は一番後ろの廊下側。席に座っていると、隣のクラスの桃子ちゃんがあいさつにきてくれました。クラスに1人だけいる女子まりちゃんが、たまたま欠席だったからです。
いよいよ、1時間目が始まりました。先生が冗談を言うとみんなで大笑いしたり、いつ自分が指されるかドキドキしたり、すべてが初めての経験でした。休み時間になると、お弁当のいいにおいがして、男子が早弁しているのが分かり、新鮮でした。
ある休み時間のこと。私がまりちゃんと話していると、数人の男子が集まってきました。
「これで点字を打つんだって」と、まりちゃん。
「打ってみる? この先がとがってるのは点筆って言うんだけど、点字は六つの点の組み合わせなんだよ」
と、私が説明すると、一人の男子が名前を打ちました。他の人の名前は私が打ってあげました。点字盤から紙を取り外すと、
「すげー!! これが俺の名前なんだって!」
「打つの、めっちゃ早くねえ?」
自分で打ってみたい男子の行列ができました。
部活の時間になってしまった空手部の人が、打てなくて、とても残念がっていたのが印象に残りました。
あっという間に5日がたち、「もっといたい」という正直な感想と共に終わりました。
そして、冬期講習にも参加しました。教室に入ると、ずっと一緒に過ごしてきた仲間のような安心感と、自然に受け入れてくれる温かさがありました。どうしてたった5日しか一緒にいなかったのに、当たり前のことのように接してくれるんだろうと驚きました。
私は今までずっと1人の授業が多く、普通校の人とかかわる機会はありませんでした。だからこそ、大学へ進学して、健常者と同じように学び、働きたいと思っています。
担任の先生から夏期講習に交ざる話を聞いたとき、視覚障害のある私を受け入れてくれるのだろうか、友達は作れるのだろうかなど、不安はつきませんでした。でも、「いましかない」と決心しました。私がかってに、健常者と障害者の間に厚く見えない壁を作ってしまっていたのです。
しかし、この壁は簡単に崩されてしまいました。そのことに驚き、恥ずかしくなりました。
春休みは盲学校で課外を受けました。そんなある朝、安達駅で桃子ちゃんに会いました。一緒に電車に乗り、いろいろな話をしました。
「今日はバスじゃないの?」
「春期講習中だから歩きなんだ。一緒に行くよ」
と、桃子ちゃんが手引きをしてくれて、うれしかったです。私がいつも歩いている道ではなく、裏道を行きました。
「祐花ちゃんの学校ってどこにあるの?」
「福高の近く」
「ああ、わかったかも!」
こんな会話をしているうちに、いつの間にか2人で迷子になってしまいました。私はどこを歩いているのか分からず、困りました。ただ、学校にはほど遠い感じがしました。
「ここって13号線だよね?」
「うん、そうだよ」
「郵便局ある? その近くに左に曲がる点字ブロックがあって、歩道橋の下を通るんだけど……」
「あ、あるよ! 大丈夫、大丈夫」
私がこの大冒険で気づいたこと。
それは手引きをしてもらっていても、自分で主体的に歩かなければ、目的地までは連れて行ってもらえないということでした。おしゃべりに夢中になりながら、もう一つの耳を働かせることの難しさを実感しました。
897グラムで生まれた私が、いま、生きていることに改めて感謝しています。
たくさんの人の愛に見守られ、支えられ、今日まで成長してきました。
私は普通校の課外に交ざるという経験を通して、世界が大きく広がりました。新しい世界に足を踏み出すのは、とても勇気がいることです。それがどんなに小さな一歩でも、進んだことには変わりません。きっと、これからも大切なことに気がつけると信じています。
私は1人ではありません。ほんとうの空の下、同じように目標に向かってまっしぐらの人たちがいます。障害の有る無しにかかわらず、一人一人精いっぱい生きています。明るい未来へ向かって。

<準優勝> 転機

【関東甲信越地区代表】東京都立八王子盲学校 高等部専攻科理療科2年 北村 浩太郎さん(36歳)

大好きなバイクに囲まれて、本当に幸せな時間でした。
当時、私はカワサキのZと言うバイクの専門店で、チーフメカニックとして働いていました。私は、このバイクの整備に関しては、誰にも負けない自信がありました。
オレがさわればどんな状態でもカンペキに整備出来る! と自分に酔いしれ、自惚(うぬぼ)れていました。
そんなある日、先輩や友人達と、酒を飲む機会がありました。自分の自惚れにどっぷりと浸(つ)かっていた私は、先輩にタメ口を聞き、後輩には抑圧的に会話をしていました。
そんな時、突然、後輩の1人が言ったのです。
「お前、何様なんだ! 年上の人を呼び捨てにしてんじゃねぇ! ちょっと仕事出来るようになったからって、のぼせ上がってんじゃねぇよ! お前、バカか!」
その後輩は、涙を流していました。
私の自惚れた天狗(てんぐ)の鼻は、根元からへし折られたのです。
私の心は、とてつもなく乱れました。
しかし、その時はどうすればいいか分かりませんでした。
悩み続けて、3カ月ほどたったころ、あの事故が起きてしまったのです。

真っ暗の中、聞き覚えのある声に目覚めました。それは、まぎれもなく兄貴の声でした。訳が分からなかった。ここは東京なのに、なぜ田舎の熊本にいる兄貴の声がするのか。
私は、バイクで事故を起こし、病院の集中治療室にいたのです。
麻酔を打たれているせいか、記憶はとぎれとぎれでしたが、体が動かない、節々が痛い、しゃべりたくてもしゃべれない。
私は、骨盤を4カ所骨折し、その衝撃により動脈が裂け、出血多量のショック状態で運ばれていたそうです。顔面は甚だしく砕けていました。アゴも折れていました。眼球は衝撃により破裂し、先生は両目とも摘出した方がいいと言ったのですが、おふくろと兄貴が止めてくれたのでした。そこで先生は、両目合わせて60針以上も縫い合わせ残してくれたそうです。
そんな寝たきりのある日、先生が来て告げたのでした。
「あなたの目は、見えなくなりました」と。
果てしなく暗い奈落の底に落ちていく感覚を、今でも鮮明に覚えています。
人生の終わりだと思いました。
死のうと考えました。
しかし、動かない体で死ねるわけもないのです。
今から思えば、命を救ってくれたその場所で死のうなんて、これほどバカげてる事もないのに、当時は本気でした。
私のいた病室は、重症病棟でした。緊迫した事態が日常茶飯事のように起こり、医者や看護師たちが慌しく動き回っていました。
同室に、意識が無いであろうおじさんがいました。
その人の所に、毎日毎日同じ時間に娘さんらしい女性がきて、「パパ、パパ」と、呼びかけるのです。
「ねぇ、パパ起きて」
医者から声をかけるようにいわれているのかもしれないけれど、とにかくずっと、ずっと「パパ、パパ」と、時に涙を含ませ呼びかけていました。しかし、おじさんは返事を返す事はありませんでした。耳だけの世界の中で、気づけば私も「おじさん、起きてあげなよ。起きろよ。起きろ」と願っているのです。
私は、はっとしました。

死ぬことを考えていた私が、たまたま同室に居合わせたおじさんに、元気になってくれ! 死ぬんじゃない! と願っているのです。
少しずつ生きる希望が目覚めてきました。
目は見えなくなってしまったけれど、先生は他の所は、必ず治ると言ってくれました。私の命は助かったのです。それから、私はリハビリに励みました。
そして、視覚障害者生活支援センターで日常生活の訓練を受け、いま八王子盲学校で勉強しています。
いまの私は、自惚れの固まりだったころと違い、人が支えあって、初めて生きていけることを知りました。私にとって、あの事故は視力を失うという、肉体的な最大かつ最悪の転機でした。しかし、同時に精神的な最大かつ最善の転機だったのかもしれない。
弱い私には、まだ本当にそうだと断言出来る自信と誇りがありません。しかし、いま学んでいる理療という技術を駆使し、多くの人と支えあいながら生きているということを実感する事が出来たとき、本当にあの転機が私の心の成長にとって最良の物だったと言える気がするのです。
それを夢に、1日1日を大切に生きていきたいと思います。

<3位> 優しさに包まれて

【中部地区代表】岐阜県立岐阜盲学校 高等部保健理療科2年 森嶋 悦子さん(58歳)

花を見る目は優しいです。
花を想(おも)う心は穏やかです。
人を見る目も優しくなければ。
人を想う心も穏やかでなければ。

これは私が好きな詩の一節です。
私は落ち込んだとき、いつもこの詩を思い出します。
今、私は人生を振り返るとき、この詩の持つ力に支えられてきたような気がします。今から24年前、ちょうど私が34歳の時でした。当時、私は6歳と4歳の女の子の母親として毎日、忙しい日々を送っていました。
そんなある日、目に異常を感じ眼科医を訪れました。
そして、網膜色素変性症という聞き慣れない病名を告げられたのです。
家に帰り、家族に話すと母が医学書を開きました。その中に失明とはっきり書かれていたのを見てしまいました。
私が失明する? そんな? 子供たちの顔が、主人の顔がそして友達の顔が、次から次へと浮かび、世界から一人取り残されたような孤独感に声をあげて泣きました。気がつくと保育園に子供を迎えに行く時間になっていました。子供たちと手をつないで歩きながら「あんねえ、友達には優しくせないかんよ」「なにかしてもらったら、ちゃーんとありがとうって言おうね」と、いつもと同じように言い聞かせながら家路につきました。
子供たちに毎日言い聞かせていた感謝の言葉が、その後の私になくてはならないものとなりました。
徐々に視力は落ちていきましたが、私が困ると必ず誰かがそばにいて私を支えてくれました。
1人では、ちょっと自信がなかった海外旅行も、友人たちの手を借りて韓国、香港、シンガポール、遠くはカナダまで出かけました。どれだけ世話になったことでしょう。でも、みんなは「楽しかったね」「またいこうね」と言ってくれるのです。
目が見えなくなって、人の優しさが身にしみるようになりました。
そのたびに、心からありがとう、本当に助かりました。と、感謝の気持ちでいっぱいです。
そして今、私は盲学校の理療科であん摩やマッサージを学んでいます。40年ぶりの学生生活は、とても新鮮で楽しく毎日が充実しています。 
文化祭に運動会。それに若い人たちと一緒に汗を流す部活動。私はフロアバレー部に入っていますが、いま11月の大会に向けて猛練習の真っ最中です。
この競技は、1チーム4人でボールの打ち合いをしますが、その勢いたるやすさまじいもので、まるで格闘技です。たまにボールの芯(しん)に当たり得点に結びついたときには、思わず「やったー」と叫んで、年がいもなく大はしゃぎをしています。勉強の方はとても難しいですが、かにミソ級の脳みそに喝を入れて、必ず国家試験に合格してみせます。そして、病気で苦しんでいる人たちを少しでも楽にしてあげることができたら、それが世話になった人たちに対するせめてもの恩返しだと考えています。
当時、幼かった娘たちも成人しました。小さい時から母親の障害を受け止め、一生懸命支えてくれたせいか、人の痛みがわかる優しい子に育ってくれました。
長女の方は今年、結婚をし、やがては母親となることでしょう。そして、子供たちにもその優しさを受け継いでほしいと、私は願っています。
人は、優しくされると心が穏やかになります。
穏やかな心になれば、また人に優しくできると私は信じています。
一人でも多くの人が穏やかな心になれるよう、多くの人への感謝の気持ちとともに祈っています。
みなさん、人を見る目は、優しいですか?
みなさん、人を想う心は穏やかですか?

PageTop